太田述正コラム#6014(2013.2.7)
<エリザベス1世の時代(その3)>(2013.5.25公開)

 (3)イギリス側の対抗工作(総論)

「女王の諜報主幹のウォルシンガムは、サン・バルテルミの虐殺の間、パリで大使をしており、カトリック教徒の群集によって、殺害されたプロテスタントの死体がセーヌ河に投げ込まれるのを目撃した。
 もし、エリザベスの脆弱な命がイギリスとこれらの血腥い光景の間に佇立している唯一のものだとすれば、アルフォードが我々を思い起こさせるように、彼女を守ることは、いかなる手段・・スパイ、容赦なき尋問、監視、反対者の抑圧、整備された大逆に係る法律、拷問、そしてプロパガンダ・・であれ、それを用いることは正当化され得た。」(D)

 「ウォルシンガム卿は、彼女を標的とする諸策謀の情報を獲る(infiltrateする)ために、欧州中の諸宮廷とフランスとローマの新しく創建されたイエズス会の単科大学群に強力なスパイ網を構築した。」(C)

 「恐らく、<エリザベス統治下>の人々の3分の1は頑固なカトリック教徒であり、そのうちの殆んど大部分の者は自分達の宗教的良心を彼らの主権者への義務と何とか適合させていたけれど、過激な(militant)少数はそうせず、この女王を殺すことを誓っていた。
 (国家宗教たる英国教会に対して名目的な服従をすることすら拒否する)服従拒否者(recusant)達たるこの第五列に対して、アルフォードの言う「監視者達」は彼らの秘密兵たる逆スパイ達を送り込んだのだ。」(F)

 「生まれの良いイギリス人カトリック教徒達は、宣教を行う僧侶となってからこっそりとイギリスに戻るべく、フランスとローマのイエズス会の諸単科大学で訓練を受けた。
 これらの若い男達へのインドクトリネーションは、パキスタンに行って<神>学校に入って過激主義を身に付ける英国人イスラム教徒のことを私に思い起こさせる。
 イギリスに戻るや、この逃亡者たる僧侶達は、田舎の貴族の邸宅(country house)の「僧侶離れ(priest hole)」に隠され、そこで彼らは隠れカトリック教徒達の精神的需要に応えて聖職者としての仕事を遂行した。
 多くは、監視者達の「追跡者(pursuivant)達」・・家々をぶち壊して僧侶達を狩った市民警察員(posse)達・・によって捕えられ、うち100人は裏切り者にふさわしいひどい死・・絞首された上で、内臓を掴みだされ四肢をばらばらにされた・・をとげた。
 残りの者は「転向し(turned)」、命と引き換えにウォルシンガムのために働くことに同意した。」(F)

 「これらの脅威に直面し、エリザベスの政府は、対テロリストの峻厳なる政策を開始した。
 大逆罪諸法は、エリザベスの統治権に疑問を呈した者だけでなく、宣教僧侶達と彼らを匿った者全員を捕まえられるように拡張された。
 <また、>コモンローでは拷問は認められていなかったが、カトリック教徒たる容疑者達から情報を引き出すためにいつも<拷問を>用いることを正当化すべく、特別な権力が援用された。
 大逆裁判の手続きは、告発された者に適切な弁護を提供する機会を全く与えず、危険な有罪判決が<下されるのが>通例のことだった。
 裏切り者達に対する標準的刑罰は、絞首され、まだ生きているうちに綱を切られ、去勢され、内臓を掴みだされ、そして四肢をばらばらにされた。
 100人を超えるカトリック僧侶達がこの運命を与えられた。
 エリザベスにとっては、それでもまだ足らなかった。
 彼女を殺す計画を立てたところの、バビントン陰謀者達に枢密顧問官達が更にひどい死<の態様>を考案するよう、彼女は望んだ。

→有事においては、アングロサクソンは、自由民主主義をかなぐり捨てる、と私が指摘していることの原型的例示をここに見出すことができます。(太田)

 しかし、策謀者達や宣教僧侶達が法の峻厳さを味わわされ得る前に、彼らは捕まえられなければならなかった。
 彼らがこれを行うことに資するべく、政府の諸大臣は、スパイ、情報提供者、そして挑発目的の手先(agent provocateur)、の網を構築した。
 これらは<、いわば、現在の英国の>MI5の前身群<であったと言えよう。>」(B)

→ここで、イギリスと欧州の同時代的野蛮度の比較を行っておきましょう。
 16世紀のイギリスとフランスを比較する、と言ってもそれでは広すぎるので的を絞ることにして、イギリスのエリザベス期全体でカトリック教徒「迫害」死は100人を超える程度(上出)だったのに対し、フランスでは、サン・バルテルミーの虐殺だけでプロテスタントの迫害死が1〜3万人(前出)ですから、イギリスよりもフランスの方が100倍以上野蛮だったと言えそうです。
 ことのついでに、17世紀はどうだったでしょうか。
 宗教もからんでいたところのイギリス内戦(1642〜51年)では、拡大イギリスとでも称すべき、イギリス、スコットランド、アイルランドの戦争前の合計人口が750万人であったところ、866,000人(12%)が戦病死したと考えられています。(ただし、イギリスに限定すれば、開戦前人口が500万人で戦病死が190,000人(3.8%)でした。)
http://en.wikipedia.org/wiki/English_Civil_War
 他方、やはり宗教もからんでいたところのドイツ内戦と言うべき30年戦争(1618〜48年)では、ドイツ諸邦の開戦前の合計人口が2,000万〜3,200万人であったと推定されるところ、8,000,000人(25〜40%)が戦病死したと考えられています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thirty_Years'_War
 17世紀においては、イギリスよりもドイツの方が拡大イギリスよりも2〜3倍、とりわけイギリス本体よりも7〜10倍、野蛮だったということになりそうです。(太田)

(続く)