太田述正コラム#6002(2013.2.1)
<米国前史(その6)>(2013.5.19公開)

  ウ ニューアムステルダム

 「インディアンとの紛争については、ベイリン氏がオランダ人の定住地であるニューアムステルダム(現在のニューヨーク)を扱う際、再び全面的に語られるが、それは、1609年に小規模な形で始まった。
 彼は、オランダ人は、インディアンとの諸戦争において、どんな他者に比べてもその野蛮度において遜色がなかった、という判定を下す。
 彼は、この植民地の物語を、それがイギリスに1664年に割譲されるまでの間を通して語る。 
 そして、その汚い内部抗争と多言語多文化的特質・・この点では17世紀のニューヨークはいくつかの点で今日のニューヨークと共通していた・・に注意を喚起する。」(B)

 「ニューアムステルダムと他のオランダ人定住地群は、気乗りがしないまま、オランダ西インド会社によって創建されたものだ。
 この会社は、自身を、「私的投資家達が自分のリスクでもってこの地に住んで(populate)行う諸努力に関し、監督を行う(iversee)とともに間接的に利潤を得るところの管理機関(supervising body)」であると見ていた。
 その結果は、完全に予想できることだが、混沌だった。
設定されていたところの諸協定や諸契約のことを知らずに、そしてそれらに関心を払わずに、諸個人は、否応なしにこの地に吐き出され、恒常的に新しい企みをどんどん遠い場所場所において行い続けた。
 この会社が統制しようとすると土地所有者達それに屈し、土地所有者達が統制しようとするとこの会社が屈する、ということが繰り返された。
 「一方の利益になることはもう一方には不利益になる、或いはそう見えた」とベイリンは記す。
 <そうした中、>叛乱は不可避であり恒常的だった。
 欧州では、オランダは移民者達の国であり、その緩やかに統制された諸植民地も同じような、「オランダ以外からの雑多な人々・・フィンランド人、スウェーデン人、ワロン人(Walloons)<(注7)>、フラマン人(Flemings)<(注8)>、フリジア人(Frisians)<(注9)>、ホルスタイン人(Holsteiners)<(注10)>、デンマーク人、ドイツ人、そしてフランスのユグノー達・・からなる地となった。」(D)

 (注7)「ワロン語を母語とする人々であり、ベルギーのワロン地域で多数派を構成する。・・・ワロン語はフランス語の一方言とみられ、風俗もフランスの延長といっていいほど似かよっている。宗教は伝統的にカトリックが多い。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%AD%E3%83%B3%E4%BA%BA
 (注8)現在のベルギーに即して言えば、フランデレン地域に住む人、すなわちフラマン語を公用語とする人々、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%B3%E5%9C%B0%E5%9F%9F
ということになろう。
 ただし、フラマン語については、「ときに「オランダ語の方言」と表現されることもあるが、言語学的にはフラマン語という1つの方言(あるいはフラマン語と総称される諸方言)があるのではなく、低地フランク語の諸方言が・・・フランス北東部とフランデレン地域・・・にまたがり横断的に分布し、同じ方言群が属する国によって違う言語名で呼ばれている。・・・オランダ語<自体、>低地ドイツ語の方言<である>という考え方があるが、それに従えば、フラマン語も低地ドイツ語の方言として分類され<う>る。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%B3%E8%AA%9E 
 (注9)現在のオランダとドイツにまたがって住む人々でフリジア語を公用語とする。(フリジア語はオランダでもドイツでも公用語に指定されているところの、英語に最も近い言語。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Frisians
 (注10)現在のドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の南半分に住む人々。1866年まではデンマーク領だった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%92%EF%BC%9D%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%B7%9E
 言語は、オランダ東部からドイツ北部・・広大!・・にまたがって分布する低ザクセン語(Neddersassisch)。低ザクセン語は、「英語やフリジア語、スカンジナビア諸言語との共通点が標準ドイツ語<との共通点>より多い。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8E%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3%E8%AA%9E

 ビーバーの毛皮は主要産品としては不適切であることが判明し、この植民地では、管理の不手際とインディアン達に対して下手くそにしかけられた諸戦争を通じて悶着が続いた。
 ニューオランダ(New Netherlands)は、1640年代には、北欧州全域から2,000人を超える移民が到着して総人口が3,500人となったことから、繁栄するようになった。
 メリーランドやヴァージニア同様、彼らの大志はインディアン領域にも及び、1641年と1655年に<インディアン達との>暴力的諸紛争を発生させた。
 <時あたかも、>ニューアムステルダムの指導者達は、この植民地<が拠って立つ>経済的根拠(rationale)を必要とするに至っていた。
 すなわち、その農民達は労働力を必要としていたのだ。
 そこへ、奴隷貿易が、アフリカからの直接的輸入の形で始まる。
 そして、1664年には、自由ないし奴隷の黒人がニューアムステルダムの人口の4分の1近くを占めるに至る。
 <ところが、>『野蛮な年月』の中では、彼らは無名の存在であり続ける。
 これは、まことにもってよろしくない。
 なぜなら、多くの黒人は興味深い人柄だったからだ。
 例えば、マニュエル・デ・ゲリット・デ・レウス(Manuel de Gerrit de Reus)・・通称「巨人(the Giant)」・・は、酒場での喧嘩でもう一人の黒人であるヤン・プレメロ(Jan Premero)を死に至らしめた後、くじで死刑を宣告されたが、絞首刑の綱輪を二つ壊して執行者を苛つかせ、結果的に赦免がなされた。
 これは、オランダ人とアフリカ人の超自然的諸力信仰が組み合わされたことによる決定だった。
 <要するに、>全般的に、ベイリンによる、ニューアムステルダムにおける奴隷制の出現についての描写は平板だ<、ということだ>。
 ニューアムステルダムその他における宗教の重要性についての、彼の優れた諸洞察のことを考えれば、ベイリンは、例えば、どうしてオランダ人敬虔派(pietists)<(コラム#1145、3620)(注11)>が、北米の北部における最も頑固で中心的な奴隷所有者群となり、大西洋<沿岸地区>中部における人間奴隷(bondage)制が実に19世紀に至るまで続くことになったのかを説明する機会を逸した<、と言わざるをえない。>」(I)

 (注11)「敬虔派<ないし>敬虔主義<と>は、特定の教理を遵守することではなく、個人の敬虔な内面的心情に信仰の本質を見る信仰的立場を言う。この傾向はキリスト教史の中に幾度も見受けられるが、それが明確な運動として現れたのは、「敬虔主義の父」とも呼ばれるドイツのフィリップ・シュペーナー[(1635〜1705年)。ルター派の牧師)]においてである。」
http://www.weblio.jp/content/%E6%95%AC%E8%99%94%E6%B4%BE
http://www.weblio.jp/content/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC ([]内))
 この書評子は敬虔派を一般用語として使っていると考えないと、年代的に微妙に話が合わない。

(続く)