太田述正コラム#6000(2013.1.31)
<米国前史(その5)>(2013.5.18公開)

 (4)野蛮各論

  ア ヴァージニア

 「ヴァージニアの最初の農園主達について、ベイリンは、「わずかの者は教育を受けており、幾ばくかは文盲だった。
 しかし、何が良かったのかと言えば、辺境の定住地群で繁栄するための彼らの共通の能力(capacity)だった。
 すなわち、彼らは、タフで非感傷的で、短気で、粗放的な大志を抱いた男達であり、優雅な生活ではなく、利潤とより広大な土地所有に関心を持っていた」と記す。」(J)

 「この植民地のパトロン達が、チェサピーク湾(Chesapeake Bay)<(注5)>は、自分達の当初の思いとは裏腹に、金や銀が敷き詰められておらず、また、太平洋への水路でもないことを発見した時、彼らは、自分達の投資を回収すべく考え得るあらゆることを試みた。

 (注5)「<米>国東海岸首都ワシントンD.C.の東にある湾である。ポトマック川 (Potomac River ) やサスケハナ川 (Susquehanna River ) などが流れ込み、南北に細長い。沿岸にはボルチモアやノーフォークなどの都市がある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B5%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%AF%E6%B9%BE

 その多くが誘拐され、またその多くが子供であった、準備不足の移民者達が入れ代わり立ち代わり船に乗って到着したが、これらの船は、ことごとく、ワイン造り、絹造り、ガラス造りといった、新しいとっぴな計画(scheme)を実現しようという意図を持ったものだった。
 そして、それらの全ては失敗した。
 ヴァージニア会社も失敗し、1624年に破産した。
 その時までに、ジェームスタウンの植民者達の4分の3ないしそれを超える人々が、飢餓、疾病、殺人、オオカミ、インディアンの矢によって、そして人肉食によってさえ、斃れていた。
 それでも、イギリスの人々は、次から次へとやってきた。
 英王室とヴァージニア会社が大嫌いだったタバコ<(注6)>の発見につられて・・。」(I)

 (注6)「最初にたばこに反撃を試みた人物として有名なのが,イ<ギリス>王ジェームズ一世でした。王は1604年に,当時すでに国中に普及していた喫煙の風習を,卑しい異教徒の野蛮で不潔な習慣の恥知らずな物真似として非難し,たばこは国民を怠惰にし,たばこのための無益な散財が国力を損なっていると嘆き,たばこ万能薬説にも異論を唱えました。ただし王は,喫煙を禁止するのではなく,たばこの輸入関税を一挙に40倍に引上げ,王室財政に寄与させる方策を採りました。」
http://www.t-webcity.com/~thistory/thistory/t_history.html
 「タバコ自体は15世紀にアメリカ大陸からヨーロッパに伝えられたものであるが、それ以前からスペインでは薬草類を "tabaco"と呼んでいた。・・・スペイン語の "tabaco" は、古いアラビア語で薬草の一種を示す "tabaq" という言葉が語源であるとみられている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%90%E3%82%B3

 ヴァージニアにおける初期のイギリス人の定住は1607年にジェームスタウンで始まったところ、彼は、彼らの人口的脆弱性を強調する。
 植民者達は、食べるためのものを十分見つけることが困難だった。
 彼らの指導者達は、しばしば無思慮であり、彼らは頻繁にインディアン達と戦った。
 (1622年の虐殺は、すんでのところで全てを台無しにするところだった。)
 1630年までには、ヴァージニア人達は、市場性のあるタバコ栽培を習得し、高い死亡率を上回る十分な数の新しい移民者達を惹き付けるようになった。」(B)

 「ヴァージニアでは、乾燥した(seasoning)年々はとりわけひどかった。
 ベイリンは、1609年に、定住者達が耐え忍んだ、ひどい飢餓を詳述する。
 馬、猫、鼠と来て、最後は靴の皮まで食糧にした。
 絶望的になって死体を墓から掘り出し<て食べた>者もいた。
 あるイギリス人定住者によれば、ある男が自分の妻を殺害し、「胎児をその子宮から引きずり出し…母親を切り刻んで食用に塩漬けにした」。
 更なる定住者達と救急物資を載せた船舶群が到着したのは翌春だった。」(I)

  イ メリーランド

 「メリーランドでは、1650年に、イギリスから到着した男達の15から20%が最初の一年以内に亡くなった。
 幸運にも18歳に達することができた者のうち30%は、自分達の実の両親を亡くしていた。」(J)

 「1634年に創建されたメリーランド植民地もまた、とりわけ夏期のマラリアによって死亡率が高かった。
 初期の労働力不足が、我々が今、人間密輸(human trafficking)と呼ぶところのものを引き起こした。
 しかし、1630年代末になると、イギリスは、やがて内戦へと導かれるところの、人口増、及び、宗教紛争と喧嘩、に悩まされたことから、種々の植民地を充足するに足る人々を<イギリス外に>追い出すようになった。
 メリーランドの移民の人々は、ヴァージニア<の移民の人々>と同様、気難しかった(fractious)が、相対的に、インディアン達と戦うことは少なかった。」(B)

(続く)