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太田述正コラム#5998(2013.1.30)
<米国前史(その4)>(2013.5.17公開)

 (3)野蛮総論

 「欧州人とインディアン、白人対白人、の真の野蛮性には凄まじいものがあり、文明の化粧板(veneer)がしばしばいかに薄いかを、そして、初期の数十年の<北米における>諸植民地ではまさにそうであったことを、示している。」(C)

 「最初の最初から、主たるものはインディアン達を追い払う(displace)ための闘争であり、「自然に反する、野蛮で、不必要で、不正義で、不名誉な(disgraceful)戦争だった」と一人の同時代人が形容した。
 「<それは、>人種的紛争の諸事件と非常に密接に関連していて、その致死的余波が非常に長く続いたことから、単一の継続的な欧州・インディアン戦争・・まさにヴァージニア会社が期待していた「平和も休戦もなき恒久的戦争」そのもの・・と見ることができる」とベイリンは記す。」(G)

 「最初の定住者達の生活は、「混乱、失敗、暴力、そして礼儀(civility)の喪失」の生活だった、とベイリンは記す。
 「土地は荒々しく、アメリカ先住民と欧州人にとって、互いに相手は完全にエイリアンだった。
 両者は交易を行ったし、時には友人になったけれど、彼らは互いに野蛮に戦争しあいもしたのだ。」(J)

 「<この本の>頁の多くは、1651年の『リヴァイアサン』で、全権能を持った政府によって統制されなければ、<人々に>「汚く、暴虐的で短い」人生をもたらすところの社会について描いた、トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes)が書いたとしてもおかしくなかっただろう。
 ベイリンが生き生きと描いた対象たる人々の幾ばくかは、老齢になるまで生きたが、読者達の頭の中は、疫病の結果としての、或いはベイリンが形容した「文明の衝突」に伴う普通ではない暴虐的諸戦争によるところの、繰り返し生じた若年での大量死の物語群が占めていることだろう。
 ベイリンは、この本の最後の章を、彼の対象たる人々が送ったところの、「容赦なき人種的諸紛争、凶暴かつ野蛮」と「財産諸権、法的諸義務、そして地位を巡る宗教的諸紛争」等の「紛争的諸生活」を要約することから始める。
 これらの諸衝突中最も重要であったのは、もちろん、英国だけからではなく、オランダ、スウェーデン、ドイツ、そして北欧の他の諸所からもやってきた、欧州人達からなる新しい定住者達とアメリカ・インディアンとの間のものだったが、諸衝突としてはそれだけではなく、大勢のアメリカ・インディアン諸部族同士でしばしば起った戦争もあった。
 ベイリンは、これらの戦争のうちの幾ばくかのものを「ジェノサイド的」<戦争>と描写する。
 マサチューセッツのピューリタン達が、ペクォット族(Pequots)による白人定住者達への攻撃に対する復讐として行った戦争<(コラム#3668)>のことを思え、と。
 ピューリタンの指導者達の一人は、その結果を浮かれて、「神聖なる殺戮(divine slaughter)」と描写した。
 ベイリンが記すように、ピューリタン達は、「ナラガンセット族とモヒカン族という同盟者達に支援されつつ、ペクォット族の男、女、そして子供達を生きながら焼き、見つけた逃げようとした者達全員を殺戮し、残りの逃げた者は狩りをし<て殺し>た。」
 ヴァージニア人達は、それに負けず劣らず、自分達の諸敵に対して暴虐的であったけれど、自分達が神聖なる任務を遂行していると見る傾向は<マサチューセッツ人に比べると>少なかった。」(F)

 「ほぼ、ロアノーク(Roanoke)<(注4)>/ジェームスタウンから、北米東部の海岸沿いの、より固定的な欧州人達の植民地的プレゼンスたる諸集落(establishment)にかけての地域においては、時に、品位と抑制された礼儀の諸行為が見られた。

 (注4)ヴァージニア州の中心に位置する都市。下掲↓上の地図で確認されたい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Roanoke,_Virginia

 それは、余りにもしばしば、迫害から逃れ、狂気じみて困難な航海を経て、新しい地における新参者として最初の数か月を過ごした上で、ここが決定的なのだが、「彼らがその世界を侵略したところの人々の正常さを無茶苦茶にしたという異常な状況を正常化するために」、自分達が<欧州で>以前に知っていた生活を再び創造しようとした<結果だった。>。・・・
 <とはいえ、>「土着の人々<たるインディアン>が、次第に毛皮交易者達を、自分達の狩猟地群に掠奪の手を広げ、恒常的に農場と牧場を拡大し自分達をその故郷から追い出し、自分達の生活の基盤を破壊するもの、と見るようになった」のは驚くべきことではない。
 彼ら<インディアン>は、用心深くなって行き、次いで怒るようになり、更には敵対的になった。」
 <白人どもは>不法侵入だ? またやってくるつもりか? これほど重大なことになってきた以上は、<連中を>殺さないでおけるものか? と。・・・
 <ただし、白人達の間で、>プロテスタント対カトリックの大混乱(mayhem)、及び、初期の階級戦争の端緒が見られたことも忘れてはなるまい。
 例えば、メリーランドにおいては、混乱(turmoil)は、正常な社会的諸制約から解放された冒険者達の間の個人的敵意の結果であった部分もある…。
 しかし、それは同時に、多くの部分は、通常のプロテスタントの農園主(planter)達の、同植民地におけるカトリックの支配層(establishment)及び荘園システムに対する抵抗意思の表明であったのだ。」(A)

(続く)

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