太田述正コラム#5958(2013.1.10)
<大英帝国論再々訪(その6)>(2013.4.27公開)

  ウ 成功の理由

 「「英帝国主義の品質証明は、その手法、眺望(outlook)と目的(object)における異常なほどの多様性(versatility)だ。」
 とりわけ、英国は、その同意なくしてはほとんど何物も可能にはならなかったであろうところの、地域のエリート達と利益諸集団を協力者として確保することに秀でていた。
 北米諸植民地の喪失と、それに直ちに続いたところの、フランス・・革命フランス、そしてそれに次いでナポレオンのフランス・・及びその同盟者達、との間で25年間にわたって続いた「世界」戦争によって、英国の<帝国主義的>プロジェクト全体が破綻するに至っていた可能性があった。
 しかし、インドにしがみつき、英国の海上権力の優位を再確認し、そして、ワーテルロー(Waterloo)での<ナポレオンへの>勝利とウィーン会議(Congress of Vienna)の後に平和的な欧州を確保することによって、<大英帝国の>未曽有の拡大に向けての綱領(platform)が創造されたのだ。
 そして、この英国の世界システムは、第二次世界大戦に至るまで維持された。

→「英国の世界システム」を崩壊させたことに関しては、正犯は日本、従犯は米国、ということになるでしょうね。(太田)

 英国の外交的天才がこの時にあって活用(exploit)できたユニークな地政学的事情として、他の二つの重要な成分(critical ingredient)を追加することができよう。
 第一のものはテクノロジーだ。
 鉄道、快速蒸気船、次いで電信が、相対的に小さな陸軍と行政階級をもってしては、それ以前には不可能であったやり方で無秩序に広がった巨大な帝国を拡大させ、その治安を維持し統治することを可能にした。
 第二のものは、帝国を導くイデオロギーに近い何物かの出現だった。
 古き、征服と交易の海賊的帝国が完全に姿を消すことはなかったけれど、19世紀において大英帝国が装ったところのものは、このプロジェクトにかかわった多くの者によって、「啓蒙的改革と私心なき(disinterested)信託統治(trusteeship)」である、と信じられていた。
 その目的は、世界の未開の部分を、偉大なるプロパガンダの人であるトーマス・マコーリー(Thomas Macaulay)<(注10)>の言葉を借りれば、「専制主義と無政府主義のあらゆる悪」から救済することだった。

 (注10)Thomas Babington [or Babbington] Macaulay, 1st Baron Macaulay(1800〜59年)。ケンブリッジ大卒。「イギリスの歴史家、詩人ならびに政治家。エディンバラ選出のホイッグ党下院議員だった。ホイッグ史観<(自由主義史観)>を代表する人物であり、<その>『イングランド史』は、今でもイギリスで最も有名な歴史書のひとつである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC

 自由貿易の祝福と良いガバナンスと技術的進歩を普及させることによって、英国の帝国は、本当に全人類の利益になっている、と信じることが可能だった。
 もちろん、現実は、しばしば、それよりもはるかに汚いものだった。
 その鉄拳は、常にビロードの手袋に包まれていた。
 土着の人々を自治を行っていた白人たる移住者達の貪欲から守ることは不可能に近かった。
 また、インドにおける1857年の大叛乱の恐るべき衝撃の後、統治のために不可欠となったところの、<英国>人種的連帯は、現代目線からすれば、救い難く醜くい。
 他方で、1700年代に熱狂的に奴隷貿易に参加していた英国は、19世紀には、その海軍力を、奴隷を世界から追放する十字軍に投入したものだ。」(F)

 「ダーウィンは、一瞬たりとも、このプロセスの全体における資本主義的倫理の枢要なる重要性を否定しないのであって、大英帝国が、「おおむね、私的事業帝国(private-enterprise empire)であって、商人、投資家、移住者、及び宣教師、その他の大勢、の創造物であることをただちに認める。
 しかし、そこには、軽蔑するような否定的なトーンはない。
 実際、大英帝国の力が最大となった期間・・彼はそれを1830年代から1940年までとする・・において、「英国は、その競争相手達よりも全球的相互連結性(connectedness)を、より十全に活用したから世界帝国を構築することができた」と主張する。
 18世紀の大西洋交易、及び1929年時点の大英帝国を相互連結していた海底ケーブルシステム、の密度、及び、第一次世界大戦勃発直前の時点における対外投資の巨大な水準、を強調する世界地図群の全ては、偶然に支配されていた(haphazard)ものの、大英帝国が成ったのは、想像を絶する分量のエネルギー、リスク取り、遠視、及び自信の結果としてであり、「英帝国主義の品質証明は、その手法、眺望と目的における異常なほどの多様性だ」<(前出)>という結論に至る、彼の諸論旨を裏付けるものだ。
 貿易のための海洋の自由を保証することを除き、国が一般にしゃしゃり出ることなく、かつ、政府による規制が最小限にとどめられ<たという環境下で>、私的事業が世界でいまだかつてなかった最大の帝国を構築したのだ。
 ダーウィンは、たまたま<この二つの出来事の日付は>一日と違わないのだが、ジョン・カボット(John Cabot)<(注11)>による1497年6月のニューファウンドランド島上陸から、1997年のクリス・パッテン(Chris Patten)の香港退去までの、英国の海外での成功に導いたところの、歴史における様々な偶然(accident)や地理を注意深く見つめる。

 (注11)伊: Giovanni Caboto(1450年頃〜1498年)。「北<米>大陸の発見者として知られる。・・・コロンブスと同じジェノヴァに生まれ、前半生はヴェネツィアで活動し、1484年にイギリスへ移住した。1496年に国王ヘンリー7世の特許状を受けて、ブリストルを出航したものの失敗。翌年、・・・カナダ東南岸のケープ・ブレトン島に到達し、ニューファンドランド島やラブラドル半島を発見するなどの成果を挙げて帰国した。1498年にも探検隊を組織し、グリーンランド東西沿岸の調査航海を行ったものの船員の叛乱によって南下を余儀なくされ、その途上で没した。この二度目の航海でデラウェアとチェサピーク湾を発見したことは、イギリスがフロリダ以北の北米大陸の所有権を主張する根拠となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%88

(続く)