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太田述正コラム#5952(2013.1.7)
<大英帝国論再々訪(その4)>(2013.4.24公開)

  イ 大英帝国概観

 「帝国の諸形態の遍在性にもかかわらず、この代物の英国自身のバージョンは、なかなかどうして瞠目すべきもののように見えるが、それは、一つには、湿気の多い島嶼群の小ささと、英国人とアイルランド人が暫時侵攻し専有することに成功したところの、極端に大きくて多様でかつ広範囲にわたる諸領域との鋭い対照性のゆえんだ。・・・」(A)
 この本を通じて、ダーウィンは、ライバルたる諸軍、原住民、或いは生態系のいずれに割り当てられたにせよ、「多かれ少なかれ組織化された暴力」がこの帝国において巨大な役割を果たしたことを強調する。
 1770年より前のインド、或いは疾病の猖獗によるカリブ海域のように、英国自身の部隊が少なかった場合ですら、原住民諸部隊や奴隷兵を雇って汚い仕事をやらせることでしばしば対処したものだ。
 多くの海外の場所で英国人の数が極端に小さかったために、人種主義的距離(を原住民との間に置くこと)を活用することを盛んにやりがちだった。
 「土着民」(と女性)を帝国的居住区(settlements)の一定のクラブ<(注7)>群から占め出したのは、偏見だけでなく、当該地域において支配的な白人男性のカリスマを支えようとする企みでもあったのだ。」(A)

 (注7)「イギリスでは・・・クラブという組織形態が普及したのは17世紀後半になってからである。当時、喫茶店と社交場の機能を兼ね持つコーヒー・ハウスがロンドンを中心に増加していたが、コーヒー・ハウスで交流していた客のうち、共通の趣味・話題を持つ者同士でコーヒー・ハウスの一室を借りて定期的に集会を開く人々が現れた。これがクラブの起こりである。コーヒー・ハウスがそうであったように、クラブもまた、上流・中産階級の男性を会員とし、女性会員は認めていなかった。・・・ヨーロッパに発祥した近代的クラブは、ヨーロッパによる進出に伴って他地域にも紹介された。特に在外イギリス人は居留する先々でクラブを結成し、当地におけるクラブの最初例を多数残している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96
 クラブは「個人の自主的な意思に基づく」もの(ウィキペディア上掲)であり、少なくとも個人主義的な社会でないと成立しえない。よって、(上掲ウィキペディアではぼかされているが、)クラブは個人主義のイギリス発祥であると考えてよい。
 なお、現在もなお、イギリスの伝統的なクラブ(Gentlemen's club)
http://en.wikipedia.org/wiki/Gentlemen%27s_club
では、クラブ内の核心部分には女性客は立ち入れない。(私自身の経験による。)

 「ダーウィンは、<大英帝国運営にあたっての>暴力と失敗について容赦しない。
 アトリー内閣とその<インド>副王たるマウントバッテン卿が、インドの分割にあたっての、このひどい期間に帰せられるところのしばしばそのほんの一部の数字ではなく、「少なくとも100万人」の死について、<ダーウィンによって>正しくも非難されているのを<この本の中で>読むことができるのはいいことだ。」(B)

 「<大英>帝国の形成は、「ひどく乱雑なプロセスであって、政府の政策、或いは中央官庁街で行われた諸決定は、物語の一部分、いや時にはほんのわずかの部分、に過ぎなかったのだ。」
 早くも、1915年に、戦時中の小冊子の『中欧論(Mitteleuropa)』の中で、ドイツの帝国主義者のフリードリヒ・ナウマン(Friedrich Naumann)<(注8)>は、「英帝国主義の非システム的(unsystematic)性格」に触れている。

 (注8)1860〜1919年。「ドイツの政治家、プロテスタント神学者。・・・リベラル派を代表する政治家・言論人として、政界・メディアなどで活躍した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%83%9E%E3%83%B3
 彼は、自由主義的帝国主義の信奉者にして、マックス・ヴェーバーの親友だった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Naumann
 彼の著書の『中欧論』は、中東欧の地政学を論じた本であり、第一次世界大戦終了後、ドイツが中東欧において文化的・経済的帝国となるべきである、と唱えられている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mitteleuropa_(book)
 この本は、すぐに日本でも紹介された。
 「『中欧論』・・・の論旨を約めて云えば独逸及び墺匈国を中心として北は北海及び波羅的<(バルト)>海より南はアルプス山脈、アドリアチック海及びダニューブ河に至る間に包まれたる大小の国家を打て一丸と為し中部欧羅巴の連盟を策せんとするものなり。而して其の手続は主として経済上よりして関税同盟の形を取らんとするものなり。・・・」(大阪朝日新聞社説(1916.2.28)より)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00855390&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

 「世界のあらゆる所に散らばっているところの、海と植民地の<大英>帝国は、実に、何のシステムもなくして組織されており、イギリス人的弾力性がその中に存する。我々が諸原則と呼ぶものを、イギリス人は作業方法(working methods)とみなす」と。
 <実際、>大英帝国は、その絶頂期においてもがたがたの存在であり、100を超える切り離された政治単位とインドにおける約600の土侯国から構成されていた。
 それが、「人類コミュニティのほとんど全ての種類を呈していた」ことから、また、その内部における多様性が極めて大きかったことから、単一の統治の形態(pattern)など不可能であり、ロンドンからの確固たる帝国政策など「常に夢物語(pipe-dream)だった」のだ。
 ボーア人たるヤン・スマッツ(Jan Smuts)<(コラム#3698、4556、5089)>将軍は、大英帝国は信頼性のトリックに拠っていると考えた。
 彼は、1899年に、それは、「騒擾があったり攻撃を受けたりした場合に対処すべき適切な軍事組織がないというのに敵対的な人々が住んでいる大きな諸国から構成されており、大英帝国が行使する支配権(dominion)は…本物の軍事力より威信(prestage)と道徳的脅迫に拠っている」、と述べた。」(F)

(続く)

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