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太田述正コラム#5910(2012.12.17)
<欧米政治思想史(続)(その1)>(2013.4.3公開)

1 始めに

 アラン・ライアンの『On Politics: A History of Political Though』(コラム#5876、5880、5882、5884)の書評がまた出ていた
http://www.ft.com/intl/cms/s/2/adfc52a6-438f-11e2-a48c-00144feabdc0.html#axzz2F5q7S9CA
(12月15日アクセス)ので、ご紹介したいと思います。

2 書評の内容の紹介

 「・・・「どうやったら人間は最も良く自分達自身を統治できるか」という一つの火急なる質問に対して、ライアンは、ぶっきらぼうに、「道徳的に受容できる民主主義の形は自由民主主義だ」と回答する。・・・
 彼より前のフランシス・フクヤマのように、ライアンは、自由民主主義の諸理想を道徳的かつ政治的に普遍的なものと見なしている。
 この諸理想は、欧州的近代性の勝利を体現しているのであって、それより前の全ての政治思想よりも実質的に前進を遂げたものなのだ。・・・
 物語は、前途多難なところから出発する。
 「我々が理解するところの政治的思想はアテネに始まる」と、アテネの民主主義はペルシャの専制主義との闘争から生まれた、という標準的観点を繰り返す前に、彼は記す。
 同等者の間の市民権としての民主主義の政治的理想は爾後繁栄した、と彼は述べる。
 しかし、アテネにおける<市民による>自己統治は、常に扇動と少数意見に対する非寛容へと堕しがちだった。
 それは、奴隷制と女性の隷属の上に立脚していたところ、「古代世界が夢見ることが決してできなかったところの、知的、精神的、かつ職業上の一定の自由を普通の人に」与えた。・・・
 <しかし、>ライアンは、(例えば、)アテネの民主主義者達が定期的に九女神達(muses)<(注1)>の助言を求め、かつ、民主主義の女神(goddess)<(注2)>を崇拝していたという、或いはまた、彼らが政治的倨傲の病を恐れたが故に奴隷制について頭を悩ましていたという、事実に関する豊饒な重要性に光を照射するところの、最近の一連の研究上の発見を無視している。

 (注1)ムーサ・・・またはムサは、ギリシア神話で文芸(・・・ムーシケー、ムシケ)を司る女神たちである。複数形はムーサイ(・・・Musai)。英語・フランス語のミューズ (英語・フランス語単数形: Muse、フランス語複数形 Muses) やミューゼス (英語複数形: Muses) としても知られる。ムーサたちはパルナッソス山に住むとされる。ムーサたちを主宰するのは学芸の神アポローンである。・・・大神ゼウスとムネーモシュネーの娘で9柱いるとされる。別伝ではハルモニアーの娘とする説や、ウーラノスとガイアの娘とする説もある。古くはその人数は定まって<いなかったが、>ヘーシオドスによって9柱にまとめられた。・・・当初は特定の分野が割り当てられず、音楽・詩作・言語活動一般を司る知の女神たちであったようだが、古典期を通じてローマ時代の後期には各ムーサがつかさどる学芸の分野<(歴史や天文を含む)>が定められ、現在広く知られる形が出来上がった。ヨーロッパの多くの言語では、「音楽」を意味する語(英語: music)、また「美術館」「博物館」を意味する語(ミュージアム、英語: museum)が、この名前から派生している。古典古代の学堂であったムセイオンは、もとは文芸の女神ムーサを祀る神殿であったが、後に文芸・学問を研究する場にも使われるようになった。ルネサンス以降に西洋に博物館が成立した際に、ムセイオンの名が復活している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%B5
 (注2)説得(persuasion)と誘惑(seduction)を人格化した女神であるPeitho
http://en.wikipedia.org/wiki/Peitho
が、紀元前5世紀にアテネの民主制が確立すると、議論(debate)と説得によって達成される市民的(popular)同意とコンセンサスによる統治の象徴たる女神へと発展したもの。
http://peace.maripo.com/p_goddess.htm

 <また、>ライアンは、枢要な言葉であるデモクラティア(demokratia)<(注3)>の語源がミュケナイ(Micene)の言語であり、1950年代初期に初めて解読された、線文字B(Linear B)<(注4)>に発することを無視している。

 (注3)demos(人々)+kratos(権力)からできた言葉であり、直接民主主義を意味する。
http://en.wikipedia.org/wiki/Demokratia
 (注4)「紀元前1450年から紀元前1375年頃までミュケナイ<(ミケーネ=Mycenae)>時代に、ギリシャ本土からエーゲ海諸島の王宮で用いられていた文字」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97B
 「ミケーネ文明は、紀元前1450年頃、[ペロポネソス地方東北部の]アルゴリス地方で興り、ミノア文明と同じく地中海交易によって発展した<ところの、前ギリシャ文明>。ミノア文明との貿易を通じて芸術などを流入し、ついにはクレタ島に侵攻、征服したと考えられる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%82%B1%E3%83%8A%E3%82%A4%E6%99%82%E4%BB%A3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B4%E3%82%B9_(%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3) ([]内)

 更に<また、>彼は、初期のギリシャ民主主義の基本的な政治単位であった民会(assembly)<(注5)>の諸起源が、ニップル(Nippur)<(注6)>とバビロン(Babylon)<(注7)>といった都市が民会ベースの政体を持っていた場所であったことを再確認する考古学的証拠のあるところの、シリア/メソポタミアからフェニキア経由で東方から輸入されたものであることについて、何も述べていない。

 (注5)「古代ギリシアの諸ポリスで開催された市民総会。エクレシアとも表記される。ポリス初期に戦士を構成員として設けられた軍会に起源が求められる。前5世紀に直接民主制を確立させたアテナイにおける民会がとりわけ良く知られている。・・・ペリクレス時代に国政の最高決議機関としての地位を確立させた。・・・18歳以上のアテナイ市民権を有する男子であれば、民会に自由に参加、発言、投票することができた。ただし、・・・女性、奴隷、在留外人は民会に参加することすらできなかった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E4%BC%9A
 (注6)「バグダッドの南東約160キロの位置にある・・・古代メソポタミアの都市。紀元前6千年紀頃から居住が始まりシュメール時代には最高神エンリルを都市神としたことから宗教的中心地となっていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%AB
 (注7)「バグダ<ッ>ドの南方約90kmの<位置にある>・・・メソポタミア地方の古代都市<であり、>・・・マルドゥクを守護神とした。・・・ウル第3王朝崩壊後のイシン・ラルサ時代の群雄割拠をこの都市に開かれたバビロン第1王朝第6代の王ハンムラビが制して以後、メソポタミア下流域の重要都市として浮上した。これ以後のメソポタミア下流域、すなわちシュメールとアッカドの地を、ギリシャ語で「バビロンの地」を意味するバビロニアの地名で呼ぶ。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%93%E3%83%AD%E3%83%B3

 これらの、<この本の>始めの方における軽い過ちの数々は、ライアンの政治的思想の全球的歴史に、古いファッションのオリエンタリズムの陰影を帯びさせている。
 <すなわち、>欧米は、あらゆる事柄の物差しとみなされ(reckoned)、東方は、その劣等なる付属物と見なされ(deemed)ているのだ。
 だからこそ、彼は、イスラム文明が「欧米」の政治的アイデンティティに及ぼした歴史的諸貢献・・大学、民主主義の利点群に関する(950年前後のアル=ファラービ(al-Farabi)<(コラム#2456、3273、5884)>による)持続的考察、民会の新しい様式(モスク)、君主制と民族国家、そして恐らくは、政治的代表の原則と実践への深いアンビバレンス、といったイスラムによる贈り物群・・について沈黙しているのだ。・・・

(続く)

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