太田述正コラム#5884(2012.12.4)
<欧米政治思想史(その4)>(2013.3.21公開)

 1937年に米国の学者のジョージ・サバイン(George Sabine)<(注4)>は、パイオニア的な政治理論史を出版した。

 (注4)1880〜1961年。コーネル大卒で同校の哲学教授を長く務める。
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Holland_Sabine

 欧州の自由主義と民主主義が消え行きつつあった時において、彼は、プラトンとアリストテレスから始まり、中世のキリスト教の政治思想を経てマキアヴェッリ、ホッブス、ロック、及びマルキシズムとファシズムからの挑戦、に辿りつく物語を提供した。
 それから70年を超えた後に出現したところの、ライアンの<本における政治思想家の>配役リストは殆んど変わっていない。
 前巻は古典ギリシャからマキアヴェッリまでに我々を誘い、後巻はホッブスから「マルクス後の世界」までだ。
 確かに、ライアンは、米国の思想をサバインが選択したよりも大きく取り上げてはいるし、19世紀中頃の自由主義にもより詳細に分け入っている。
 しかし、全ての重要な点で、正典(canon)は全く変わっていないように見える。・・・
 フランス思想の不在は目立つ。・・・
 しかし、より言い訳のできない点は、自由主義の伝統が、その挑戦者達と真剣に関わる(engage)ことなくして、また、類似のそしてしばしば同一の諸問題に対して驚くほど異なった諸方法で取り組んできた、並行し<て存在し>た諸伝統の存在を少なくとも認めずして、生き残り得るという観念だ。
 基本的な知的問題とはこうだ。
 ひとたび、あなたが政治の中心的論点(issue)が政治的コミュニティの中での自由(liberty)の維持であると定義した途端、絶対主義、ファシズム、そして宗教原理主義は、容易に、本質的に<我々にとって>否定的な利害に係る諸現象として立ち現われて来る。
 しかし、例えばファシズムは、カール・シュミット(Carl Schmitt)<(注5)(コラム#4015)>という、その書き物の中で、議会制民主主義に対する焼けるような批判を提供したところの、かなりの力量を持った理論家を提供している。

 (注5)1888〜1985年。「ベルリン大学、ミュンヘン大学、ストラスブール大学などで学<ぶ。>・・・第一次大戦後のワイマール政権下、議会制民主主義、自由主義を批判した。また、ナチスが政権を獲得した1933年からナチスに協力し、ナチスの法学理論を支えることになる。しかし、ナチス政権成立前に、著書『合法性と正統性』において、共産主義者と国家社会主義者を内部の敵として批判し<てい>たことや、ユダヤ人のフーゴー・プロイスを称賛したことが原因で、1936年に失脚する。・・・「友−敵理論」(政治の本質を敵と味方の峻別と規定)や例外状態理論は名高い。<なお、>・・・スペイン内戦を「国際共産主義に対抗する民族解放戦争」とみなした。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88
 (フーゴー・プロイス(Hugo Preus、1860〜1925年)は、「ドイツの公法学者である。ベルリン大学、ベルリンの大学院で教鞭を執った<ところの、>「ヴァイマル憲法の父」として知られている。ドイツ民主党の党員で<も>あった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%B9 )
 「カール・シュミットは、・・・議会制民主主義における諸政党は、社会的・経済的な利権集団に過ぎず、国家に対して責任を欠いている。彼らは自らの利益のために立法を重ねるため、そうした体制下での「議会制民主主義の発展」とは、政治的倫理・理念を欠いた妥協のための技術が磨かれたにすぎない<、とした>。<すなわち、>彼は、(特定集団の経済的利害に左右されない)真正の政治が秩序をもたらし、その秩序のもとで法が形成されるのが望ましいと考える。しかし、議会制民主主義下の日常はこれとは異なっており、「民主的に」(=様々な利権団体に翻弄され妥協を重ねながら)議会で法が定められるのが、議会制民主主義下の日常であると捉えている。<その>著書・・・において、「主権者とは、例外状態に関して決断を下す者である。」と<した>ように、彼にとって真正の政治が復権する状況の一つが「例外状態」であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%8B%E5%A4%96%E7%8A%B6%E6%85%8B

 彼の政治の定義においては、自由とは、気を紛らわせるもの(distraction)に過ぎず、政治は敵と味方の区別を巡って解決されるものと見た。

→機会があれば稿を改めて論じたいところですが、シュミットの見解は、共産主義を広義のファシズムよりもはるかに大きな悪と見たこと、(そして、広義のファシズム中、ナチズムをファシズムよりも大きな悪と見たこと、)は正しいけれど、議会制民主主義(自由民主主義)を善としてこれらに対置させなかった点では間違っていると思います。
 議会制民主主義の陳腐さはシュミットの指摘通りではあるものの、それは内政面の話であり、シュミット言うところの「例外状況」、すなわち、議会制民主主義への敵対者との対峙状況が少なからず生じるところの、とりわけ外交・安全保障面では、これまたシュミット言うところの「友-敵理論」が適用されるのであって、かかる状況に不断に、或いは少なくとも間歇的に対処することを通じて、議会制民主主義における諸政党、就中そのリーダー達は「国家に対して責任」を追う存在へと鍛え上げられることから、シュミットの議会制民主主義批判は的外れである、と思うのです。
 ただし、このシュミットの批判は、遺憾ながら、独立国家であることを放棄してしまったところの、戦後日本の諸政党やそのリーダー達には当てはまる、とは言えそうです。(太田)

 これには不同意かもしれないが、真剣に受け止めるべきなのだ。
 ところが、ライアンによるファシズムとナチズムの取り扱いは、これらの動きの最も重要な事柄はこれらの非合理主義であると見る古い歴史編集論(historiography)の域内に捕われ続けている。
 今日では、大部分の歴史家達は、戦間期の自由主義に対するこれらの挑戦を、この「非合理主義テーゼ」が認めているよりもっと深刻なものと見なしているように思われる。
 そして、その結果、シュミットの諸観念とより十全に関わろうとしない政治思想の歴史があるなどということは、奇妙としか言いようがない、ということにあいなるのだ。・・・
 ・・・この本は、宗教の扱いについても、同様欠けている。・・・
 ライアンは、信仰に惹きつけられること(appeal to faith)を完全に反政治的なものとみなすかどうか揺れ動く。
 彼は、ギリシャ人を旧約聖書のユダヤ人・・「できる限り政治なしで済まそうとした」・・と対比させる。
 そして、対照的に、アウグスティヌスからマキアヴェッリに至る諸世紀を政治思想の知的ブラックホールとみなすことは恐らく不可能であることを認める。
 しかし、ひとたび、人文主義者(humanist)が15世紀と16世紀に出現するや、教会は、<この本の中では>おおむね忘れ去られてしまうのだ。
 その他の信仰については、殆んど触れられることがない。
 イスラム教は、そのいつもの歩み・・古典ギリシャと中世のスコラ主義(Scholastics)の間の得難い(helpful)橋渡し役・・をさせられるけれど、少なくとも20世紀中頃に、欧米の帝国主義に対する急進的な過剰反応の一種を掻きたてたとみなされる時点までの間は、<ライアンは、イスラム教について、>いかなるそれ自身の自律的(autonomous)知的活動も真の意味では認めようとはしないのだ。・・・
 <しかし、ライアンは、>どうして、アル=ファラービ(al-Farabi)<(注6)(コラム#4294)>からムハンマド・アブドゥー(Muhammad Abduh)<(注7)(コラム#2456、3273)>に至る主要人物群にまともなスペースを割くことなく、サイード・クトゥブのようなとるに足らない人物に言及するのだろうか。・・・

 (注6)870?〜950年。「出生については異説もあるが、中央アジアのファーラーブ(現在のカザフスタン共和国オトラル)といわれている。若くして中央アジアの都市ブハラで学ぶ。901年にバグダードへ。・・・ダマスクスで80歳で死去。彼は特にアリストテレスの研究に力を注ぎ、・・・イスラームでは真理を獲得することこそが真の目的で、人はこれにより真の幸福を得られると説いた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%BC
 (注7)1849〜1905年。「エジプト<生まれで>・・・カイロにあるアル=アズハル大学で学<ぶ。>・・・学生のときに、ジャマールッディーン・アフガーニーの思想に共鳴し、1877年にアル=アズハルを出ると教鞭をとっていたが、アフガーニーのエジプト追放に連座する形で、1879年にカイロを追い出された。翌年には、カイロに戻り、・・ウラービー革命・・・に関わったため、一時期亡命生活を送った。・・・ムハンマド・アリー朝の極端な西洋化政策を批判しつつも、西洋の技術を取り入れることとイスラームは矛盾しないと説いた。<また、>・・・イスラームが成立した当時の精神に立ち返って柔軟な法解釈(イジュティハード)を行うべきであるという主張を行った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%95
 「ウラービー革命・・・とは、1879年から1882年にかけて、エジプトで起こった革命運動である。アフメド・ウラービー陸軍大佐にちなんで、この名前がつけられた。ムハンマド・アリー朝・・・とヨーロッパ列強に対抗した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%BC%E9%9D%A9%E5%91%BD

 ウッドロー・ウィルソンは、世界が民主主義にとって安全な場所になることを約束したが、それを殆んど達成できなかった。
 ローズベルトとトルーマンはより多くのことを成し遂げたけれど、自由主義の、より強情な(hard-nosed)バージョンを改めて断言するばかりであったことから、第三世界全域における反米主義の火事嵐を引き起こしてしまった。・・・」(D)

3 終わりに

 私に言わせれば、サバインやライアンが、フランス等の欧州やイスラム世界の政治思想を基本的に否定的にとらえ、しかるがゆえに重視しないのは当然であって、そのことに批判的な書評子はおかしいのです。
 むしろ、これらの人々に共通する、より根本的な問題は、彼らが政治思想と言う時、それが「欧米(Western)」政治思想を指していることであり、にもかかわらず、欧米政治思想の一環として古典ギリシャ・古代ローマの政治思想を取り上げつつ、ほぼ同時代のインドの仏教や支那の諸子百家・司馬遷らを完全に無視しているところにあるのです。
 これでは、現代における欧米政治思想への共産主義や広義のファシズムやイスラム原理主義からの挑戦は視野に入っても、支那の功利主義(実利主義)や仏教・日本の人間主義からの挑戦は視野に入りようがないではありませんか。

(完)