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太田述正コラム#5876(2012.11.30)
<欧米政治思想史(その1)>(2013.3.17公開)

1 始めに

 アラン・ライアン(Alan Ryan)の『On Politics: A History of Political Though』(前巻と後巻の2分冊。Book One:Herodotus to Machiavelli、Book Two: Hobbes to the Present)が上梓されたので、書評をもとに、その内容のさわりの感じをご紹介し、私のコメントを付そうと思います。

A:http://www.latimes.com/features/books/jacketcopy/la-ca-jc-alan-ryan-20121104,0,7525196.story
(11月2日アクセス)
B:http://www.publishersweekly.com/978-0-87140-465-7
(11月30日アクセス。以下同じ)
C:http://www.newyorker.com/arts/critics/books/2012/10/29/121029crbo_books_kirsch
D:http://www.prospectmagazine.co.uk/magazine/alan-ryan-mark-mazower/
E:http://www.kirkusreviews.com/book-reviews/alan-ryan/on-politics/

 なお、ライアンは、長くオックスフォード大学の政治理論教授を務め、現在プリンストン大学で政治学の教鞭を執っている人物であり、ジョン・デューイについての本やバートランド・ラッセルについての本をこれまで出しています。
 今回の本は、彼が30年間かけて執筆したものです。
http://frogenyozurt.com/2012/11/on-politics-a-history-of-political-thought-from-herodotus-to-the-present-by-alan-ryan/ 及びA

2 欧米政治思想史

 (1)序

 「・・・プラトンのように、マルクスは、未来を楽しみにしていた。
 未来においては、国家、法、強制、そして権力を巡っての競争は消滅し、政治が合理的組織によって置き換えられる。
 しかし、<ライアンは、>我々はこの比較を押し付け(press)てはならない<とする>。
 ここに我々は、彼の方法論・・脈絡(threads)や繋がり(connections)を探すと同時に、個々の思想家をその人物ごとに考察する・・を見出す。
 <脈絡や繋がり、すなわち>文脈(context)は、ライアンにとっては二つのことを意味する。
 彼が対象とするものがどのように互いに響き合っているのか、そして、それぞれがそれぞれの時代をどのように反映しているのか、だ。・・・」(A)

 「・・・<この本の前巻は、>ヘロドトスからアリストテレスを経て、古代ローマの法の理論家達<(注1)>、聖アウグスティヌス、そして中世の人々、そしてマキアヴェッリへと至る。・・・

 (注1)「ローマのヨーロッパ法文化に対する最も重要な貢献といえるのは、よく練られた成文法が制定されたことではなく、ギリシャ哲学の科学的方法論を法律問題(ギリシャ人自身はこれを科学として取り扱ったことはなかった)に適用するヘレニズム法学と呼ばれるローマ法学の成立と専門家集団としての法律家の出現である。・・・紀元前2世紀には、法律家の活動が盛んになり、法学論文が多数書かれるようになった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%B3%95

 <その中で、>ローマ・カトリックの法王庁の形成と発展が、国家の本性(nature)と役割に関して出現しつつあった諸観念に及ぼした影響<が論じられる。>
 <後巻は、>ライアンが我々の近代的な政治諸概念の父とみなすトーマス・ホッブスから<始まり>、ロック、ルソー、ヘーゲル、そしてマルクスに及ぶ。
 それに加えて、ライアンは、数章を、共和主義、帝国主義、種々の社会主義、そしてファシズムといった近代的諸運動に充てている。・・・
 ・・・奴隷制の政治的帰結(ramifications)・・・、社会主義と、自由主義及び福祉国家との関係<も取り扱われる。>
 恐れ入ったことに、フランツ・ファノン(Frantz Fanon)<(注2)(コラム#3682)>やサイイド(サイード)・クトゥブ(Sayyid Qutb)<(注3)(コラム#387、2270)>のイスラム・ナショナリズムといった、暴力擁護者の政治的思想にも考察が加えられる。・・・」(B)

 (注2)1925〜61年。リヨン大学卒。「思想家・精神科医・革命家。ポストコロニアル理論の先駆者としても認識されている。・・・フランスの植民地であった西インド諸島マルティニーク・・・の出身。父は黒人奴隷の子孫、母は混血の私生児で白人の祖先はストラスブール出身であった。・・・1953年にアルジェリアに渡り・・・精神病院で・・・1956年まで<勤務>。・・・アルジェリア人独立運動家の捕虜を診療する内にフランスの植民地支配へ反対を始め、アルジェリア民族解放戦線(FLN)に参加、アルジェリア戦争を戦い、FLNのスポークスマンとして脱植民地化(ポストコロニアル)時代のアフリカ植民地を周り、アフリカの独立指導者達からアルジェリア独立への支持を取り付けた。1962年のアルジェリア独立を目前にした1961年、白血病により、<米>国のワシントン・・・近郊で死去した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8E%E3%83%B3
 (注3)1906〜66年。カイロの高等師範学校卒。勤務していた教育省から派遣され、コロラド大学やスタンフォード大学で学んだが、この留学「経験がクトゥブを西洋文明への拒絶に向わせイスラム主義へ進む動機となった。・・・エジプトの作家、詩人、教育者、イスラム主義者。1950年代〜1960年代におけるムスリム同胞団の理論的指導者。・・・ナーセル暗殺未遂事件の首謀者として死刑宣告を受け、1966年8月29日、・・・絞首刑に処された。現在では大統領ら要人暗殺計画にクトゥブは関与していなかったことが明らかになっている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%96

(続く)

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