太田述正コラム#5868(2012.11.26)
<陸軍中野学校終戦秘史(その6)>(2013.3.13公開)

 「<1945>年4月<には>・・・フィリッピンの戦況がおもわしくなくなって、ラウエル大統領<(注12)>が日本へ亡命し<ていた。>・・・

 (注12)ホセ・ラウレル(Jose Paciano Laurel。1891〜1959年)。「フィリピン大学法学部を卒業。・・・フィリピン植民地政府の内務長官・・・、上院議員、憲法制定議会議員、最高裁判事、司法長官等を歴任。太平洋戦争・・・勃発後は日本に協力、フィリピン行政委員会委員を務めた。帝国議会で東條英機首相が示したフィリピン独立の方針を受けた独立準備委員会で委員長として憲法を起草、1943年に日本の影響下にある国民議会によって共和国大統領に選出され、同年11月にフィリピン共和国代表として大東亜会議に出席。・・・日本の敗戦が濃厚になると・・・1945年3月末・・・フィリピンを脱出し、台湾<経由で>・・・奈良で亡命生活を送る。・・・日本の降伏後・・・戦犯指定により・・・巣鴨拘置所に一時的に収監・・・。・・・1946年7月、帰国、対日協力により132件の反逆罪で訴追されたが、1948年4月にロハス大統領の恩赦を受ける。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%BB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%AC%E3%83%AB

 バー・モウ・ビルマ国家元首は、英国のケンブリッジ大学に学んで弁護士となった後、フランスのボルドー大学で哲学博士の学位を得た学者である。帰国後は、ラングーン大学教授となったが、その後政界に転じて、ビルマが英総督の下で自治組織をつくるようになると、文部大臣や総理大臣を歴任した。ところが<1939>年8月、マンダレーで反英演説をしたため、捕われて監獄へ投げこまれたのである。
 爾来、独立運動に挺身、日本軍がビルマに進撃したときも・・・牢獄にいたので、日本軍が救出して占領地行政府の長官とし、<1943年8月1日の独立と同時に国家元首にしたのだ。・・・
 バー・モウは、終戦を知ったとたんに日本への亡命を考えた。・・・それは、・・・東京<で>・・大東亜共栄圏会議<に出席した>・・・折、ときの首相、東条英機大将の
「いかなる場合にたちいたろうと、日本および日本国民は、皆さんの面倒を最後までみさせていただく」
 と、立派に言いきった言葉が耳にあったからだ。バー・モウ元首としては(ビルマやインドにいて英軍につかまったら、今度は間違いなく「反逆罪」で絞首刑だ。日本も敗戦したのだから、あのときの総理の言葉ほど、自分を立派にかくまってくれるとは思えない。しかし、まだしもビルマやインドをうろついているより、日本に亡命した方がましだろう)と、すばやく計算したものにちがいない。・・・
 <外務省は、家族抜きの単独ならという条件付きで受け入れることにした。そこで、バー・モウは、>飛行機で日本に向かった・・・。・・・
 <接伴した外務省は、彼を、東京経由で>新潟県美並魚沼郡六日町に移したのである。・・・
 <当地で、外務省や大東亜省の依頼を受けた地元の有力者達がバー・モウの接伴を引き継いだのだ。>・・・
 やがて<、1945>年<末になると、>バー・モウは、・・・支那へ脱出する<ことを考え、>・・・外務省に対して百万円の借用を申し込んでみたが、・・・なしのつぶて<だった。>・・・
 すでに、京都にひそんでいた中国の陳公博<(注13)>は帰国して処刑されていたし、奈良にいたフィリッピンのラウエルも米軍につかまっていた。インドのボースは飛行機事故で、台湾で死んだこことがはっきりしているし、残るはビルマのバー・モウだけである。

 (注13)1892〜1946年、「北京大学に学び五四運動に参加、マルクス主義や社会主義に触れる。・・・共産党脱党後に渡米し、1925年コロンビア大学で修士号を取得。帰国後に中国国民党に入党し、・・・汪兆銘<ら>と共に国民党左派として活動する。北伐が始まると蒋介石や汪と共に北上するが、一時蒋に反旗を翻し武漢国民政府に参加。武漢国民政府解散後は<野に下る。>満州事変勃発後に蒋によって汪が行政院長になると実業部長を歴任するが1936年に汪が行政院長を辞任すると陳も閣外に去る。1938年に汪共々重慶を脱出し、対日和平を模索。1940年に至って汪兆銘政権が成立すると立法院長を務めると共に上海市長を兼任。1944年に汪が死去すると政府主席代行・行政院長・軍事委員会委員長を兼任した。戦後・・・日本へ身を寄せるが、国民政府の帰国要請で裁判を受けるため中国へ帰国<し、>・・・死刑判決を受け・・・処刑された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%85%AC%E5%8D%9A

 <そこへ、英代表部が外務省にバー・モウの出頭を求めてきた。彼に>自首をすすめると、・・・バー・モウも<観念したが、>・・・処刑をひきのばす窮余の策として「日本軍の再建組織」という大ヨタを思いついたらしい。
 バー・モウが自首したのは、<1946年>1月18日である。・・・
 <彼は、>
「日本人たちは、第三次世界大戦を計画し、ひそかに反占領軍組織をつくっている。そのメンバーは、青年将校、革新官僚、それに一般の青壮年層を加えたものである。本部は、海外との連絡を考えて、佐渡ヶ島においているものとみられる」
 と、・・・言いだした・・・。・・・
 戦時中、イギリスはインドに対し、戦争に勝ったら独立させると約束していた。インドが独立すれば、ビルマもだまってはいない。独立機運が動くと、ビルマ民衆は、かつての独立運動の指導者バー・モウを求めて騒ぎ出す。結局、イギリスもバー・モウを処刑することができなくなる。と<彼は>計算し<たのだが、>・・・<こ>の計画はみごとにあたった。・・・<1946>年7月末にビルマへ送り還された彼は、ほとんど処刑らしい処刑もされずに済んだのである。
 一方、バー・モウのこの大ヨタで巣鴨入りした日本側の、外務省<の関係者や>・・・六日町の志士たちは、入獄実に7ヵ月。バー・モウがビルマへ還った数日後の8月2日、いっせいに釈放された。とんだ目にあったものである。
 第三次大戦準備の反占領軍組織は、バー・モウが考えだした嘘であるが、それでは日本に、それに似たものがなかったかというと、決してそうではない。・・・陸軍中野学校二期生の・・・少佐の提案で、陸軍省から500万の出資を得た「占領軍監視の義勇隊」がそれである。・・・
 彼らは武器隠匿の一方で、その金を資金に、いろいろな商売をはじめた。しかし、結局は士族の商法で、みんな失敗に終わり、何ヵ月間か食いつないだというだけで終わってしまった。・・・
 その成否はともかく、・・・バー・モウの・・・嘘<で始まった>・・・捜査の網にもかかわらず、表面にも出ずに済んだのは幸いで、おそらくその一端でも網にかかっていれば、相当の犠牲者が出たにちがいない。」(388〜389、394〜399、404〜406、409〜412)

→バー・モウのような身の処し方は、関わった人々にとっては迷惑至極だったわけですが、乱世に生き残るためにはああでなければならなかった、ということでしょう。
 それはそれとして、「上」はバー・モウ、ラウエル、チャンドラ・ボースらから、「下」は、トン・アンプーのような人々に至るまで、戦前から戦中にかけて、それぞれの想いを秘めつつ、命をかけて日本に協力してくれた、非日本人たる人々のことを我々は忘れないようにしたいものです。
 ところが、例えば、「上」の人々と違って、トン・アンプーのような「下」の人々については、日本のネット上では殆んど言及がなされていません。
 有志が、このような人々各々について、ウィキペディアを書いてくれることを期待することひとしおです。(太田)

(続く)