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太田述正コラム#5866(2012.11.25)
<陸軍中野学校終戦秘史(その5)>(2013.2.12公開)

 「アキャブ<は>米の積出し港であ<り、>・・・戦前は、・・・この港から大量に、<インドの>チッタゴン<(注8)>やカルカッタ方面へ輸出されていたのである。ところが、戦争でぴたりと輸出がとまったために、農民は米をつくってもはけ場がなく、現金収入がないから、ロンジー(腰巻)やシャツを買う金にも困っているありさまだった。

 (注8)「<現在の>バングラデシュ第二の都市であり最大の海港である。ミャンマー国境に近い、バングラデシュ南東部に位置する。・・・数千年に渡って交易地として繁栄してきた。・・・、アラブ人、アフガン人、ムガール人が数百年に渡り上陸し、また定住してきた。現在もフィリンギ(Firingi)と呼ばれるポルトガル人の子孫がチッタゴンに<いる。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%83%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%83%B3

 わけても、<1942、43>年は豊作で、アラカン地方<(注9)>の農民は米をもてあましていた。それに反して、印緬国境を一歩越え、ビルマ領のアラカンからインド領のベンガルに入ると、有史以来の凶作で、<1942>年秋から<1943>年にかけ、インド全体で約500万、ベンガル地方だけで300万人が餓死したのである。

 (注9)「今日のラカイン州に対応する地域」。ラカイン族(アラカン族)を主要民族とし、独自の長い歴史を有する。ラカイン族の最後の王朝は、1666年にムガール帝国に奪われるまでチッタゴンも版図にしていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%B7%9E

→これをベンガル飢饉どころか、ベンガル・ジェノサイドと呼ぶ者すらあることはご承知の通りです。(ただし、死者は150万人くらいというのが死者の中位数のようですが・・。)(コラム#5817)
 このジェノサイドを行ったのは、言うまでもなく、当時宗主国だった英国です。(太田)
 
 ラジオニュースの傍受で、この窮状を知った丸山上人は、
「服部さん、ビルマの米をインドにやることはできんだろうか」
 と言い出した。
「上人、こりゃ難題ですな。マユ河やナーフ河<(注10)>の河口には、英軍の掃海艇がうろついていますから、米など積んで出たら、捕獲はまちがいないでしょう。この命がけの仕事を、ひきうけるものがあるでしょうかね」・・・

 (注10)ナーフ川(河)は、当時のインドのベンガル地方、現在のバングラデシュとの国境を画す川。
http://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%B3%5B%E5%B7%9E%5D
 マユ川(河)は、ナーフ川から車で東方に約1時間走ったところを、やはり南北に流れている川らしい。
 ちなみに、アキャブは、現在、シットウェーと呼ばれており、ラカイン州の州都である。ラカイン州は、西をベンガル湾、東をラカイン(アラカン)山脈に挟まれた、南北に細長い州であり、同州の北部はバングラデシュやインドとの結びつきが強い。
http://birmania.voxx.jp/data/states.html

 <1943>年も6月に入ると・・・トン・アンプーが、決死の冒険をひきうけた・・・。軍に話せば「とんでもない」と反対されることはきまっていたし、憲兵隊にしれれば「通敵行為」として逮捕されるかもしれない。絶対内緒で米を集めなければならないから、トン・アンプーの子分連中はもちろん、スパイ事件で命を救われた回教徒のスルタン一味も協力した。<こうして、米を集め、>・・・十数隻の大型サンパンに積みこんだのである。・・・
 往路は、みごとに英軍掃海艇の監視を突破して、米をコッペバザー<(注11)>に陸揚げしたが、帰路は米のかわりにチッタゴン織りを積みこんだ。・・・このチッタゴン織りの腰巻にシャツというのが、アラカン地方の農民の姿だったのである。・・・

 (注11)不明。コックスバザール
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Bg-map-ja.png
の誤りか。

 とつじょ、闇の中から英海軍の掃海艇が・・・姿を現したのである。・・・
 トン・アンプーは「万一のときは、これを出してみろ」と、服部大尉が渡してくれた封書を士官の前に差し出した。・・・
 士官は受け取って封をきった。出てきた便箋をひろげて、読んでゆくうちに、次第に顔からきびしい表情が消えて行った。それには「米輸送が戦争とはまったく関係なく、住民の窮乏を救うために、トン・アンプーらの義侠的な行動と、回教徒たちの協力でおこなわれているもので、英軍でも人道上、ぜひとも協力してほしい」という意味のことが書かれてあった。若い士官の顔には感激の色が走ったが、読み終わると再びきびしい表情にかえって、
「一応、積荷だけは調べる」
 と、水兵たちに命じて荷物を調べた。そして他の積荷のないことをたしかめると、
「船頭、貴様が評判のトン・アンプーか。よく顔をみせろ」
 と笑顔で言う。
「へえ」
「貴様、なかなかやるそうだな。まア、気をつけて行け。帰ったら、キャプテン服部によろしく伝えろよ」
 言いすてて、士官がさっと手をあげるのを合図に、水兵たちは掃海艇にとびうつった。・・・
 しかしこの、戦火に荒れはてた心に灯をともすようなこころよい企ても、そう長くは続かなかった。戦局の険悪化で、三度で終って四度目に集めた米は、第55師団の将兵を半年にわたって養うことになったのである。」(295〜300)

→この挿話が物語っているのは、日本側には、日本占領下の英領ビルマの英国臣民達のみならず英領インドの英国臣民達までもの苦境に苦慮し、何とかしようと試みる者もいたというのに、どうやら、英国側にはそのような者はいなかったらしい、ということです。
 ジェノサイドとも称される大飢饉に伴う大量餓死者の発生は、日本によるビルマ占領もその原因の一つであったとはいえ、英国側にベンガル地方を中心とする現地英国臣民達の苦境に苦慮する気持ちがあれば、例えば、中立国であり、印緬地域と歴史的に深い関係のあったポルトガル・・アジアで、依然、植民地としてインド西岸のゴア、(日本の保護占領下にあった)東チモール、及び(日本の影響下にあった)マカオを持っていた・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6#.E3.83.9D.E3.83.AB.E3.83.88.E3.82.AC.E3.83.AB
に印緬間の食糧を中心とする交易を依頼することとし、それについて日本側に事実上の了解を取り付ける、といったことも一つの方法だったと思いますし、そこまで行かなくても、せめて民間密貿易を積極的に黙認するなりしてしかるべきだったのではないでしょうか。
 先の大戦初期における日本のビルマ解放やその後のインパール作戦のインパクトに加えて、英国による、このような現地英国臣民達への非人間主義的対応が積み重なったこともあり、戦後の大英帝国の早期瓦解が必然となった、すなわち、英国は対日戦争に軍事的には勝ったけれども政治的には負けることとなった、と言えそうです。(太田) 

(続く)

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