太田述正コラム#5864(2012.11.24)
<陸軍中野学校終戦秘史(その4)>(2013.3.11公開)

 「<日本軍による1942年5月の同市>占領後間もない8月頃から、岩畔機関<(注6)は>・・・アキャブ<(ビルマの西端、インドとの「国境」に近いベンガル湾に面した戦略要衝に位置していた小都市)>に支部を置いていた。・・・

 (注6)「対米開戦前において、日本の陸軍部は同時に対英開戦が避けられないことを想定し、当時<英国>の植民地であった英領インドの対英独立工作を画策し始めた。その端緒はタイ王国公使館附武官田村浩大佐の下に設置された特務機関であった。1941年9月に発足したこの機関は、参謀本部の藤原岩市少佐以下10名程から構成され、機関長藤原の頭文字と自由を意味する英語をかけてF機関と命名された。またF機関の人員はすべて陸軍中野学校出身の青年将校であり、発足当時は数名だったものの12月には10名を越えていた。・・・開戦直前より南方軍の指揮下となり、インド独立連盟と協力し工作活動に当たり、インド国民軍の編制にも当たった。・・・同機関は岩畔豪雄陸軍大佐を機関長とする岩畔機関に発展改組され、250人規模の組織となった。・・・機関はやがて500名を超える大組織となり光機関と改称された。光機関は1943年、ドイツに亡命していたインド独立運動の大物スバス・チャンドラ・ボースを迎え、ボ−スと親交の深い山本敏大佐が機関長となった。光機関の命名はインドの言語(ヒンディー語)で“ピカリ”という言葉と、「光は東方より来る」という現地の伝説から“光”とされた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%8B%99%E6%A9%9F%E9%96%A2

 <この機関は、>日本山妙法寺<(注7)>の僧、丸山行遼上人とその弟子たちを・・・アキャブへ派遣したのである。

 (注7)創立者は藤井日達(1885〜1985年)。「臼杵の日蓮宗法音寺にて出家。・・・日蓮宗大学(現在の立正大学)入学。さらに浄土宗大学院、真言宗学林、法隆寺勤学院、真言宗連合大学、臨済宗建仁寺僧堂にて学ぶ。1918年・・・、旧満州の遼陽に最初の日本山妙法寺を建立、日本国内では1924年・・・に最初の日本山妙法寺を建立する。1930年・・・にインドに渡り、1933年・・・<ガンジー>と出会い非暴力主義に共鳴。第二次大戦後は、不殺生、非武装、核廃絶を唱えて平和運動を展開。1954年・・・、<ネール>首相より贈られた仏舎利を納めた仏塔を熊本駅裏の花岡山山頂に建設。1957年・・・に<ネール>首相と会見。また「世界宗教者平和会議」や「世界平和会議」の開催にも尽力した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E4%BA%95%E6%97%A5%E9%81%94
 ガンジーの「『諸宗教の祈り』では、撃鼓(ぎゃっく)唱題(太鼓をたたいてお題目を唱えること)から始まり、その後2分間の黙祷を捧げ、それから「諸宗教の祈りの唱和」に入」ったが、これは藤井日達から取り入れたものだという。
http://dharmadas.blog17.fc2.com/blog-entry-281.html

 日本山妙法寺は、藤井日達上人の開いた日蓮宗の一派で、・・・左翼とみている人もあるが、けっしてそうではない。人間性尊重の立場から、戦争や原爆にも反対するので、ビルマやインドにおいても、白人の侵略を憎んだ。その一面でまた、国民精神の作興を説いていたが、それが国家社会主義者の大アジア主義と結びつくものがあったので、藤井日達は頭山満、大川周明、北一輝などとも親しかったのである。・・・
 丸山大三郎青年<は、>・・・日達上人に会うと、たちまち惚れこんで早稲田の角帽を捨て・・・僧に変身した・・・。・・・
 インド<の>・・・英国<による>統治には、・・・藤井日達猊下の頃から反対で、猊下も若い頃からあの辺をうちわ太鼓をたたいて巡錫したが、丸山上人もまた巡錫かたがた、反英を鼓吹してまわ<り、>・・・監獄にも幾度かぶちこまれ、追放処分もくらっていた。・・・
 一行は、アキャブ<で>、・・・仏教道場<を開いたが、>・・・実はビルマ人たちを使って集めた情報を、機関独特の暗号にくんでは・・・打電していたのである。・・・
 後方で教育訓練したインド人諜者を・・・国境近くまで送って行って、インド側に潜入させるのが、情報蒐集とともにアキャブ機関<支部>の仕事<だった。>・・・
 やがて、岩畔大佐の転任とともに、岩畔機関は光機関に変わったのである。」(253、257〜260、267、269)

 「ビルマのアラウンバヤ王朝は、英国との3回の戦争で滅びた。それまで、アラカン地方はビルマ人の支配下にあったが、このときを転機に東ベンガル系回教徒が次第に勢力をひろめてきて、日本軍がビルマに進攻する前頃には、マユ半島からインドの国境にいたるほとんどの地が回教徒の手中にあったのである。そのため、仏教徒のビルマ人は、ひどく回教徒を憎んでいた。・・・歩哨に立った・・・日本軍<の>・・・兵隊には、ベールをかぶっている回教徒が、本当に女か、それとも男の変装かわからない。だから、無理やりベールをはいで顔を覗くということになる。・・・
 <だ>から、回教徒はますます日本軍を嫌う。その反対に仏教徒のアラカン人(アラカン地方のビルマ人)は日本側と親しみ、多年の恨みをはらすのはこのときとばかり、回教徒に食ってかかる<わ、>・・・集団で回教徒を襲うという事件にまで発展した。・・・
 上人は・・・アキャブ地方一帯の回教徒の頭であるスルタン・マホメット・・・<彼は、>英軍に通じてい<た>・・・とも親交を結ぶようになったのだ。・・・
 <1943>年の1月早々、・・・憲兵隊が、・・・17名の回教徒をスパイ容疑で逮捕したのだ。・・・
 <この>17名<ラングーンに送られ、そ>の死刑は確定的<だった。>・・・
 <折しも、>入れ違いに、アキャブへ着任したのが<中野学校出身の>服部新吾大尉<以下、3人の将校と1人の軍曹>である。・・・
 丸山上人<の話を聞いた服部大尉が、ラングーンの機関支部長の中佐に直訴した結果、>憲兵隊<は>・・・処刑をとりやめたばかりか、無罪釈放という処置をとったのである。・・・
 敵に廻っていた東ベンガル系回教徒はこのために、アキャブ機関<支部>に協力的となった・・・。・・・
 当時、アキャブにはウ・ケスラというビルマの高僧が来ていた。<彼>は、・・・丸山上人が、インド・・・で仏教修行中に、ともに学んだ仲だから、アキャブでも・・・機関員の僧たちと一緒にうちわ太鼓を叩いていたのである。・・・トン・アンプーは・・・仁侠を売物のやくざだった<が、>・・・ときどきやって来ては長老の話をきいているうち、丸山上人など機関員とも馴染みになった。・・・
 <日本軍は、>当時アキャブ方面には、山砲一個大隊、歩兵二個大隊の・・・支隊しかいなかったので・・・隙間だらけ<だった。>・・・
 そこで、アキャブ機関<支部>では偽報を流し、敵の進出を食いとめようと考え・・・<偽報が>トン・アンプーの子分たちの口を通じてアラカン全域にまかれた。・・・
 <この>工作はみごとに成功した。敵<たる英軍>の二個旅団が、幻の日本軍の出現を信じて、行動を決しかねているうちに、戦機は去ってしまったのである。・・・
 わが南方派遣軍は、<1943>年の初春早々に、敗走の大混乱に陥ってい<てしかるべきところを、こうして救われたのだった。> 」(272〜282)

→「<日本山>妙法寺は「平和・非暴力」による<成田>空港建設反対運動に加わ<り、平和塔を建設して>いた。<この>平和塔の移転に際しては、日本山妙法寺と運輸大臣、千葉県知事、新東京国際空港公団との間で「空港の軍事利用を行わない」旨が記された「取極書」が交わされた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B1%B1%E5%A6%99%E6%B3%95%E5%AF%BA%E5%A4%A7%E5%83%A7%E4%BC%BD
という日本山妙法寺でさえ、先の大戦の時、帝国陸軍に全面協力して多大の成果を上げていた、というのですから、この大戦を、いかに当時の日本人の大部分が力を合わせて戦ったかが改めて分かるというものです。
 また、ミャンマー(ビルマ)の回教徒(Rohingya)問題(コラム#5817)に、帝国陸軍は、現ミャンマー政府よりもうまく対処していた感があります。
 それは、上掲引用からも窺えるように、帝国陸軍が、中野学校出身者達を始めとして、ビルマの人々に対して、基本的に、自利的対応をせず、人間主義的誠意をもって接していたからこそでしょう。
 そして、英植民地解放にも向けての、このような帝国陸軍の献身的な努力があったからこそ、戦後、ビルマの回教徒の多くの故郷であったベンガルの回教徒地区は(当初は)パキスタンの一部として、そしてインド亜大陸本体はインドとして独立し、ビルマはビルマとして独立を果たせた、ということなのだと思うのです。(太田)

(続く)