太田述正コラム#5842(2012.11.13)
<ジェファーソンの醜さ(その7)>(2013.2.27公開)

 「・・・ジェファーソンは、非公式に、アフリカの女性は類人猿と性交していたと推測したほどだ。・・・
 <もとより、>ジェームズ・モンロー(James Monroe)<(注11)(コラム#3028、3802)>もジェームズ・マディソン(James Madison)<(注12)(コラム518、605、623、2102、2880、3374、3631、3863、4048)>もジョージ・ワシントンも、みんな奴隷を保有していた。
 ワシントンは遺言においてのみ<奴隷を>解放した。

 (注11)1758〜1831年。第5代米大統領:1817〜25年。ウィリアム&メアリー単科大学卒。米英戦争(1812〜15年)「ではジェームズ・マディスン大統領の下で国務長官および陸軍長官として重要な役割を演じた。・・・1823年にはモンロー主義を発表し、これがアメリカ外交政策の規範になった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC
 (注12)1751〜1836年。第4代米大統領:1809〜17年。プリンストン大学(当時はニュージャージー大学と呼ばれた)卒。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%B3

 (<書評子>:そのすぐ後に続くウィーンセックのコメントの中で説明がなされているように、これは事実ではあるけれど、文脈の中で理解しなければならない。)
 このような人々<とジェファーソン>の弁護のために、しばしば、彼らは、奴隷制の空気の中で人となったのであって、<彼らは>単に彼らの時代の産物に過ぎない、と記される。
 <しかし、>それは、ウィーンセックが、<偽りであるとして、その>正体を暴いた考え方だ。
 というのは、一つには、<彼らとは違って、>ジェーファーソン自身が余りにもしばしば奴隷制なる制度を激しく非難していたからだし、もう一つには、彼が、<やはり、彼らとは違って、>彼の同時代人達から自分の奴隷達を自由にするよう促されていたからだ。
 実際、1824年に米国を訪問し、<米国で>奴隷制がまだ維持されていたことと、それにもかかわらず、ジェファーソンが、自身、いまだに人々を<奴隷として>束縛していたことに対して無遠慮に彼の落胆を表明したところの、米独立革命の英雄たるラファイエット(Lafayette)侯爵<(注13)(コラム#2945)>によって、ジェファーソンは叱られた。

 (注13)Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert du Motier, Marquis de La Fayette(1757〜1834年)。「<米>独立革命とフランス革命の双方における活躍によって「両大陸の英雄」と讃えられた。・・・バスティーユ牢獄襲撃後に新設された国民軍司令官に任命されるとともに、フランス人権宣言の起草に着手した。国民議会で採択された人権宣言は、第1条で「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」という人間平等を、第2条で天賦の人権、第3条で人民主権、第11条で思想の自由・言論の自由、第17条で所有権の不可侵をうたって<いる。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%83%E3%83%88

 ウィーンセックは、やはり独立革命に参加したところの、ポーランドの愛国者のタデウシュ・コシューシコの求めに応じて、コシューシコの遺言・・彼が残した20,000ドルでもってジェファーソンが奴隷達を自由にするという遺言・・を準備するのをジェファーソンが助けたことを伝える。
 <ところが、>コシューシコが亡くなった時、ジェファーソンはこの遺言を実行することを拒否した、と。・・・」(E)

→コシューシコの遺言の件については、ゴードン=リード(前出)は、次のような反論を加えています。(太田)

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 「・・・ウィーンセック<に言わせると、>・・・「コシューシコはジェファーソンを遺言執行者にしたのだから、ジェファーソンは、遺言書に記されたことを実行することは、彼の亡くなった友人に対する個人的責務であっただけでなく、法的義務でもあったのであり、にもかかわらず、ジェファーソンは行動することを「拒否した」というのだ。
 しかし、ジェファーソンの法的諸義務は、ウィーンセックが全く気付いていないように見える潜在的諸債務と分かち難く結びついていたのだ。
 <件の>1798年の遺言の後、コシューシコは、更に、一番最後の1817年・・彼が亡くなった年・・のものに至る3つの遺言を書いた。
 1816年に書かれたものの中で、彼は、それまでの全ての遺言を取り消し、欧州の他の人々に<彼の財産を>遺贈した。
 彼は、米国での遺言をこの取消の対象外とするかどうかについて言及していないが、1817年に彼がジェファーソンに書いた手紙の中で、彼が1798年の遺贈が依然有効であると考えていたことが示されている。
 ジェファーソンもそう信じていた可能性はある。
 しかし、コシューシコの声明によって、<米国での>遺贈が復活したかどうかは法的問題であって、関わる金銭の額の大きさからして、裁判所・・上級の裁判所・・で回答が出されなければならないものであることは疑いの余地がなかった。
 コシューシコが何をやったかを調べて競合する遺言群の存在を知るに至ったところの、70台半ばであったジェファーソンは、彼の諸義務を・・そして、これが重要なのだが、彼の潜在的な財政状況が暴露される可能性もこれあり、・・裁判所にゆだね、次いで<遺言>管理者(administrator)を任命した。
 ジェファーソンには分かっていたが、これは大変な訴訟になろうとしていた。
 実際、・・・1820年代から始まり、最終的に最高裁で1852年になってようやく結審し、1816年の遺言によって1798年の遺贈は取り消された旨の宣言がなされることになる。
 奴隷達を自由にするためにこの遺贈による金銭を用いることは、他人達が潜在的にこの財産に対する正当な請求権を有している場合にあっては、極めて危険なことだった。
 仮にジェファーソンがそれをやってしまってから、後で請求権主張者達がこれら資金に対する権利を有していることが決定されたならば、彼は弁済の債務を負うことになりかねなかった。
 ひとたび、彼が裁判所に自分の権限を委譲するや、ジェファーソンの責任、及び既に危ういものとなっていた彼の財政状況に更に財政的厄介ごとがつけ加わりかねないという脅威、はなくなった。
 ウィーンセックは、明らかに法律の実務と、法律家の多くが危険回避には強迫神経症的な傾向があること、とには疎そうであり、ジェファーソンには遺言執行者を辞任する、他のしかるべき諸理由がありえた、ということを考えることがどうしてもできないのだろう。 
 ウィーンセックは、これら詳細のうちの幾ばくかについては押さえているけれど、遺言の執行者ないし管理者の地位に内在する関連する諸脆弱性を考えることなく、これら全てを、ジェファーソンの種々の力の観点からだけ分析しているのだ。・・・」(C)
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→ゴードン=リードは、木を見て森を見ることができない人間なのか、ハーヴァード大教授にまで上り詰めた黒人女性たる自分が掲げてきたジェファーソン像やサリー・ヘミングス像に全く異なる光を照射したウィーンセックに含むところがあるのか、或いはその両方なのでしょう。
 そもそも、コシューシコは、単にジェファーソンに、ジェファーソン自身が執筆した米独立宣言の思想に従い、無条件で自分の奴隷を解放せよと言えば足りたところを、あえて2万ドルを遺贈するからそのカネに見合う数の奴隷を解放してくれと頼んだわけであり、これは、カネの亡者であるとコシューシコがジェファーソンを見切った上で、皮肉たっぷりに奴隷解放を強く促したものと、解するべきではないでしょうか。
 つまり、現実にそのカネが入手できると否とにかからわず、ジェファーソンが自分の奴隷を解放することを強く促したものではないか、ということです。
 だからこそ、コシューシコは、後に、この遺言に抵触する遺言を平気で書き、にもかかわらず、あえてジェファーソンに、依然当初の遺言の該当部分は有効だと手紙に書くことで、(上記のカネが入手できると否とにかかわらず、)ジェファーソンに自分の奴隷を解放するように、再度念を押した、ということなのではないでしょうか。
 このように、米独立戦争を一緒に戦った外国人の親友に何度も促されたにもかかわらず、ついにジェファーソンは、生前はもとより、(ワシントンとは違って、)遺言の形ですら、奴隷を解放しようとはしなかったわけです。
 ウィーンセックが、ジェファーソンは、この遺言の執行者となることを拒否した、と記しているのは、そういう意味においてである、と私は解しているのです。
 「成功」した黒人の中に、こんなゴードン=リードのような人物が少なからずいたし、現在もいることが、米国において、黒人の差別解消と地位向上が妨げられてきた理由の一つであることを指摘しておかなければなりませんし、ゴードン・リードが女性であるだけに、ベティ・ヘミングスやサリー・ヘミングスらの心中を忖度するにつけ、なおさら残念な思いがします。
 念のため、付言しておきましょう。
 私がここまでゴードン=リードについて厳しく書いたのは、(そこまで勘ぐりたくはありませんが、そもそも、彼女は今日の地位を逆差別によって得た部分があったのかもしれないことはともかくとして、)米国においては、ポリティカル・コレクトネスの観点から本件においても、黒人のしかも女性である彼女が、厳しい批判の対象とされることはなかろう、と思っているからです。(太田)

(続く)