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太田述正コラム#5820(2012.11.2)
<『秘録陸軍中野学校』を読む(その14)>(2013.2.17公開)

 「第二次大戦前の米諜報網は、ほとんどゼロにひとしかった。太平洋戦争中の対日戦では、暗号や航空写真の解読で、軍事面ではすばらしい効果をあげたが、一般諜報では対独戦線で活躍したアレン・ダレスのOSS<(戦略事務局)(658)>以外に、・・・OWI<(戦時情報局)(658)を含め、>・・・みるべきほどのものはなかったのである。・・・
 トルーマンは情報組織を好ま<ず、>・・・1945年9月には、<その>OSS<と>・・・OWI<を、何と>・・・解散<し>てしまったのである。
 GHQ・・・が、占領軍独自の諜報組織として、本郷機関(キャノン機関)<(注24)を>造<っ>たのも、一つには大陸方面の情勢緊迫化もあるが、今一つにはこうして一時的に弱まった米軍情報を補う意味もあったのではないかと思える。・・・
 <キャノン>のやり口は、復員者名簿で、これと思える人物が発見されると、帰還船が日本の港に着いたとたんに「戦犯」の名目で、その人物を船上から拘引するのである。そして、戦争中の行為をせめ、・・・なかば脅迫的に協力を迫るのだ。・・・
 <ただし、この>キャノン機関にしても、諜報の面ではお話にならないお粗末なものだった・・・。・・・

 (注24)「キャノン機関(・・・the Canon Unit)とはGHQによる占領中の日本にあったGHQ参謀第2部(G2)直轄の秘密諜報機関。名称は司令官であるジャック・Y・キャノン(Jack Y. Canon)陸軍少佐(のち中佐に昇進)の名前から来ているが、・・・正式名ではなく、後に日本のマスコミが付けた名称と言われる。Z機関(Z-Unit)、本郷機関などとも呼ばれている。
 ・・・戦後、キャノン少佐はGHQの情報部門を統括するG2に情報将校として参加。・・・G2トップのチャールズ・ウィロビー(少将)が、占領政策を行う上での情報収集のため、1949年・・・にキャノンを首領とする組織を密かに作らせた。 本郷の旧岩崎邸に本部を構えた・・・当時すでに、・・・朝鮮半島での緊張も高まっており、主に北朝鮮情報の収集やソ連のスパイ摘発などに当たっていたという。その後、民政局(GS)との政争に勝利したG2はキャノン機関を日本の共産主義勢力の弱体化にも利用した。
 1951年・・・、キャノン機関は、作家・鹿地亘を長期間にわたり拉致監禁して<米国>のスパイになることを要求した鹿地事件を起こす。翌1952年に鹿地が解放され、事件が発覚したが、この時にはすでにキャノンは解任され帰国していた。この鹿地事件でキャノン機関の名が広く世に知られるようになると、1949年の国鉄三大ミステリー事件(下山事件・三鷹事件・松川事件)への関与も疑われるようになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%8E%E3%83%B3%E6%A9%9F%E9%96%A2

 <米国は、>国内防諜ではFBIのようなものもあったが、対外諜報は世界一の英情報にたより、対外的な機関づくりや、機関員の養成を怠っていたせいだと思う。・・・

→何度も記しているように、米国は、基本的に、故郷を捨ててきた「異常」な人々及びその子孫によって構成されているため、自分達以外の外国の「正常」な人々やその文化、文明を理解できないところ、そのことが、米国の、(外国人を誑し込まなければ成功しないところの、)<人的>諜報<(=ヒューミント)>下手をもたらしている、と私は思うのです。(太田)

 その埋め合わせというわけでもあるまいが、<キャノン機関は、>謀略のほうは実に盛んで、共産党や労組対策、あるいは朝鮮戦争と、実によくやった。・・・
 <実際、諜報で>わずかに効果をあげているのは、日本人機関員の協力を得た朝鮮情報ぐらいなものなのである。・・・
 <上述したようなやり口でもって、>心ならずもキャノン機関に入ったものの中に、陸軍中野学校の出身者も幾人かいる。武林満(本名関口勇)もその一人であった。・・・
 キャノン機関では、1948年・・・11月、北鮮の状況を知るために、密輸船を仕立てて・・・武林<を>・・・北鮮<に>行<かせ>た・・・
 <彼は、>12月20日頃に帰って・・・ソ連に戦争準備の気配はない<が、>北鮮軍が着々準備をととのえている<という情報を送ってきた。>・・・
 おそらくマッカーサーは、その判断をあやまったか、それとも北鮮軍だけではなにもできないとたかをくくったものか、・・・その翌々年の1950年6月25日、朝鮮戦争が起って、武林の情報のまったく正しかったことがわかった。・・・
 キャノンは後々まで、
「さすがに、中野学校出はすばらしい」と関口の諜報技術を絶賛していた。
 キャノンは、・・・厚木の米海軍基地内の倉庫を改造し「JTAG」(テクニック訓練所)をつくっている。諜報技術を教えるスパイ学校だ。これがのちに、・・・米軍諜報訓練所(スパイ学校)の母胎となったものだが、彼がこのスパイ学校の設立を思いついたのも、中野学校育ちの素晴らしさを実際に見聞したからに他ならない。」(622〜624、658〜666)

 「登戸研究所<(注25)>は、もともと諜報謀略資材研究所として誕生しただけに、ここでの発明には、風船爆弾のような攻撃兵器よりも、謀略諜報用の小物に優秀なものが多い。・・・

 (注25)「1939年・・・1月、「謀略の岩畔」との異名をとった陸軍省軍事課長・岩畔豪雄大佐が、陸軍の兵器行政の大改革を行い、兵器の行政本部、陸軍科学研究所をまとめて陸軍兵器行政本部を設け、その下に10の技術研究所を設立した。その第9研究所が現在の神奈川県川崎市東三田に置いた通称「登戸研究所」である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BB%E6%88%B8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80
 「1944年11月3日〜1945年4月29日までの9300発の風船爆弾が発射され、268発がアメリカに到着し、死者もオレゴン州などで6名も出た。』(旧陸軍登戸研究所見学のしおりより)・・・
 登戸研究所・・・では,生物化学兵器<も>研究・開発していた。その過程で動物実験をおこなっているが、完成すると中国で・・・防疫給水本部(731部隊=石井部隊)の協力のもとで・・・人体実験した・・・。』(同上より)。・・・所長の「篠田鐐」中将・・・<は>、陸軍大臣東条英機から「陸軍技術有功賞」を受賞し、その賞金(現在の金額で1千万円ぐらい)で、・・・<1943年に>動物慰霊碑・・・と神社を<構内に>建立した。・・・人体実験犠牲者の慰霊碑は建てられないので、「動物慰霊」を建てたと考えられている。」
http://www.liveinpeace925.com/war_responsibility/noborito100109.htm

 登戸<では、>・・・繊維--つまり紙の篠田・・・鐐(あきら)博士・・・中将・・・と、技術の山本・・・憲造主計・・・大佐の名コンビが、紙幣やパスポートの傑作を生んだのだが、・・・印刷局をはじめ、民間の凸版印刷、特殊製紙会社が協力したのである。・・・
 日本が製造して大陸に流した・・・中国<蒋介石政権の>の・・・法幣の額は、・・・40億内外ではないかといわれている。いうならば、終戦まぎわの中国大陸の日本軍は一文の軍費も使わず、偽造紙幣で敵側の物資を手に入れては戦っていたということになるのだ。」(638、653〜654)

→科学技術諜報面では、米国が、先の大戦においても、日本に比べて圧倒的に優れていたというのはある程度事実ですが、当時の日本の経済力と科学技術力を勘案すれば、日本も相当いい線を行っており、登戸研究所を垣間見ても分かるように、官民を挙げた当時の研究開発の推進とその蓄積が、戦後の日本の科学技術発展の基礎をつくった、と言えるでしょう。(太田)

(完)

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