太田述正コラム#5818(2012.11.1)
<『秘録陸軍中野学校』を読む(その13)>(2013.2.16公開)

 「当時陸軍省の高官だった某中将(本人の要請によって特に名を秘す)は、
「吉田らの犯罪事実は、いうならば屁のようなもので、検挙当時はもう少し具体的な事実が出るのではないかと期待したが、結局はなにも出なかった。それかといって、そのまま釈放したのでは、相手が大物だけに軍の威信に関する。それに今一つ、彼らを軍法会議に送り、刑務所へ入れることは、一連の英米派や和平論者の原田、樺山、小畑、柳川(やながわ)平助(中将、法相)、酒井鎬次(こうじ)(予備中将)、富田健治(元内閣書記官長)あるいは近衛文麿や牧野伸顕にまで衝撃をあたえ、自然、彼らの蠢動を押さえるということにもなる。軍としてはむしろ、この方に期待をかけていたわけで、そういう点ではたしかに、吉田の検挙は効果があった」
と語っている・・・。
 獄中における吉田は、南京虫やシラミの襲来に悩まされた。かゆいからぼりぼり掻くと、爪で皮膚が傷ついて、そのあとが化膿してハレモノとなった。
「それにべたべた赤チンを塗っていたから、二目とみられないひどい顔で、たまに顔を合わせると、
「いやア、参った。かゆくて夜も眠られん」
 とこぼしていた。監房内は板敷きで、吉田も・・・そこに寝ていた。・・・そのうちに<ようやく、>寝る時にしくマット<があてがわれた。>・・・
 もともと美食家の吉田に、刑務所の椀盛りの玄米飯がのどを通るわけがない。そこで朝昼晩の三度三度、本邸からマキが弁当を運んで差し入れた。」(591〜592)

→戦前、戦中の日本人の家庭生活は、風呂と言えばマキをくべて火を起こし、料理と言えば、真空パック食品や冷凍食品も、電子レンジも自動皿洗い機もなく、すべて、下ごしらえから始めなければならず、洗濯と言えば、全自動どころか単なる電気洗濯機もなかったのですから、少なくとも専業主婦がいなければ、切り盛りができなかったところ、吉田は、いずれも広壮な<東京の>本邸・・麻生家(後出)で借りて吉田に貸していたもの(595)・・と<大磯の>別邸があったことから、多数の女中や書生が不可欠だったわけですが、彼は、若い頃は正妻の実家の牧野家の支援を受け、それ以降は、娘の嫁ぎ先の麻生家の支援を受け、その上、戦時中には、皮肉なことに陸軍からヤミ食糧の提供まで受ける、という、王侯貴族のような生活を一貫して営んでいたことになります。(外地にいる場合は、大日本帝国のエリート外交官として、これまた王侯貴族のような生活をしていたことは言うまでもありません。)
 そんな吉田が、それほど長期ではなかったとはいえ、上述のような、(普通の収監者よりははるかに恵まれてはいたけれど、)惨憺たる刑務所生活を送らされたことが、軍部に対する恨み骨髄の思いを吉田に植え付けたであろうことは、吉田自身の言からもうかがえるところです。(コラム#1651)
 これもまた、戦後の吉田が、異常と言うほかない、軍事放擲、いや、軍事敵視政策、をとったことにつながったと思うのです。(太田)

 「<吉田不在の間、>東輝次機関員・・・は自分が去った後も吉田一家が不自由なく生活してゆけるようにと、畑つくりに力を入れることにした・・・。・・・
 <そうこうしているうちに、>5月31日の午後<、釈放された吉田が大磯の別邸に帰還した。>・・・
 <6月2日、東に>”別工作あり。至急退邸せよ”の指令<が届いた。結局、彼は、>12日に吉田家を去ったのである。・・・
 吉田茂らに対する、東部軍軍法会議の「無罪」判決は、約1ヵ月後の6月25日にあった・・・。・・・
 終戦・・・から1月たった<頃、>・・・吉田茂から、姫路に復員した東輝次に”もう一度くるように”と手紙があった。・・・<当時、彼は、>満足な職もなく、うらぶれきっていたが、鉄面皮に大磯をたずねる気はしなかったので、吉田には断わり状を出<した。>・・・<その後、>たまたま手にした<本に、>・・・「吉田邸にいた書生が憲兵のスパイで、吉田茂は、そのため検挙された」と書かれていた・・・。・・・てっきり”自分のことが露見した"と思い込んでしまった<彼は、>・・・”上京していさぎよくわびよう”と決心し・・・大磯別邸の門を・・・12月13日<に>・・・くぐった・・・。・・・<しかし、誰も自分のことを疑っていないことが分かったので何も言わないまま彼は帰った。>・・・
 翌々年<の1947年、吉田は首相になっていたが、意を決した東は、>大磯を訪れると、
「旦那さま、実は私が軍のスパイだったのです。どうぞおゆるしください」
 と吉田の前に手をついた。
 吉田もさすがに、しばらく言葉もなかったが、やがて、
「よくいってくれた。あのときはお互い、お国のためを思ってやったんだから、わびることはない。君もりっぱだった。しかし、当時は君が勝ったけど、いまはわたしが勝ったね」
 と吉田は、さもこころよげに笑った。・・・
 翌日、吉田は品川までいく彼を、総理官邸に帰る自動車の助手席にのせて送ってくれ、
「君、これを吸いたまえ」
 と、秘蔵の葉巻までわけてくれたのである。<1948>年1月31日、東は実弟の日出雄を連れて大磯を訪れた。”よかったら書生に”と、吉田から話があったからである。
「おう、君が弟か、よく似てるね。ここでは雑用が多くて、なかなか勉強はできないから、官邸のほうでもいいよ。だけどね、こんどは手紙は盗むまいな」
 と吉田は、茶目たっぷりに笑った。そして東輝次にも会うたびに、
「僕は、君のために総理になれたのだよ。君が総理にしてくれたのさ」
 といっていた。
 たしかに、吉田が戦時中憲兵に拘引されたことは、彼の経歴に箔をつけ、戦後の彼に点数をかせがしてはいる。しかし、吉田が彼と会うたびにいう言葉の裏には、東を自責の悩みから救おうとする暖かい思いやりもあったのだ。
 総理を退いたある日、吉田は、東兄弟とその一家を大磯に招いた。そして、東兄弟のこどもたちを、まるで実の孫のように笑顔で迎えると、乞われるままに、東一家ときらいなはずの写真にもおさまった。・・・
 村上輝次氏(旧姓東)は、
「私は、中野学校や吉田茂を売り物にする気は、過去においても今後も毛頭ない。ただ私が吉田茂に、特別かわいがられたのは、書生時代の誠意が認められたのと、総理になってからも、私利私欲や利権につながる相談を、なに一つもちこまなかったからだろうと思う」
 と語っている。」(594〜597、601〜602、604〜609)

→エピローグ的な部分を長々と引用しましたが、一番最後から行くと、吉田が利権を漁る政治屋を毛嫌いしたこと(コラム#1651)はよく知られているところ、それは、吉田自身が、ジバンこそ余りなかったけれど、カンバン(=旧陸軍の「貢献」もあったところの知名度)とカバン(=カネ)はうなるほどあったので、当選するのに何の苦労も必要なかったからこそであるとも言えるわけですが、それだけに、東のような人物に吉田が好意を持ったということは大いにありうると思います。
 それはそれとして、吉田には人を惹きつける魅力があったことが、この部分だけからもよく分かりますね。
 一番考えさせられるのは、「お互い、お国のためを思ってやったんだから、・・・君もりっぱだった。しかし、当時は君が勝ったけど、いまはわたしが勝ったね」という箇所です。
 吉田は「国のためを思って」自分で考えて行動し、東は「国のためを思って」上司の命令に従って行動したわけですから、「君が勝ったけど、いまはわたしが勝った」の「君」とは旧陸軍を指していることになります。
 これは、低次元でとらえれば、「旧陸軍は自分(吉田)を迫害したが、今や自分が旧陸軍(軍)を迫害している」、という意味ですし、高次元でとらえれば、「旧陸軍が主張し実行に移された国策は誤っていたが、自分が主張し受け入れられなかった国策は正しかったからこそ、日本は壊滅的な敗北を喫し、戦後、ようやく自分の主張した対外政策が実行に移された結果、日本は平和と繁栄の軌道に乗った」、という意味でしょう。
 しかし、何度も申し上げてきたように、吉田は、最晩年の著書の『世界と日本』の中で、自分が吉田ドクトリンの確立につながったところの、国策を戦後推進したことを、自ら厳しく断罪することになります。(コラム#1651)
 (便利なので、何度もコラム#1651を典拠に用いましたが、そこでは吉田の対米と対旧陸軍の2つの私憤に言及したところ、対米の方の私憤はなかったのではないか、反対に吉田は米国に対し、とりわけマッカーサーに対し、感謝の念しかいだいていなかったのではないか、と考えるに至っていることはご承知の通りです。)
 結局のところ、勝ったのは、旧陸軍であり、東の方だったのです。(太田)

(続く)