太田述正コラム#5816(2012.10.31)
<『秘録陸軍中野学校』を読む(その12)>(2013.2.15公開)

 「若松町機関(ヤマ)の指揮官だった大野精大佐(仮名)の、
「<1944>年末だったか、<1945>年の初めだったか、記憶ははっきりしないが、「吉田茂とその一派の親英分子を逮捕すべきである」という意見を、憲兵隊へ申し送った。ところが、なぜか、憲兵隊では実行しなかった」<と証言している。>・・・
 当時の東京憲兵隊長は、大谷敬二郎(終戦時大佐)であった。・・・
 <彼は、兵務局>防衛課分室(ヤマ)からの<この>要請を無視したわけではない・・・
 東京憲兵隊では、一月下旬に、東京地区分遣隊の特高関係の将校を集めて会議を開いた。・・・
 当時、東京憲兵隊では、防諜のデマ取り締まりや親英米派に対する偵諜は外事課があたっていた。この外事課長が、杉原英逸少佐(終戦時中佐)だったのである。・・・
 <彼は、>「外事課の偵知したところでは、太平洋協会という団体があって、ここには幣原喜重郎、沢田廉三、松平恒雄、吉田茂など、いわゆる英米派といわれる外交官を中心に、加納久朗(ひさあきら)、池田成彬(しげあき)等の財界人、あるいは原田熊雄、樺山愛輔という政界人も集まって、時々時局講演会なども開いている。しかし、人おのおの考え方の相違があって、英米によらねば日本の発展はないと考えるものもいるだろうし、独伊によるのが日本として最大の幸福と考えるものもいるだろう。あるいはソ連をよしとするものもあって、個人個人の心の中にたちいってみれば千差万別。それが、反戦、あるいは反軍の形をとって動き出せば別だが、ただ、こうするのが日本のためだと心で考えているだけでは、罪どころか、むしろ愛国者で、国を思う道に二つはないのであるから、私は別に彼らを、親英米思想だからという理由だけで、迫害の必要はないように思う」
 と発言したのである。・・・
 会議はそのため、英米派の処置については、なんの決定もなく終わったが、・・・杉原・・・は・・・会議が終わると、もう一度吉田の真意を確かめておく必要を覚え、特高主任の大畠中尉(後に大尉。近衛上奏文にからんで吉田拘引の際には、捜査主任となった)に、吉田を訪問させたのである。吉田はこころよく会って、
「日本は過去において、英米と手をつないでいたればこそ、世界の一等国にもなれた。ソ連やドイツはウソをつくが、英国は紳士の国でウソをつかない。日本は、なんとかチャンスをとらえて、一日も早く戦争を終わらせ、英国と手をつないで国を発展の軌道にのせなければならない」というようなことをいった。これではやはり、見解の相違というだけで、どう考えても罪にはならない。たよる相手が違うだけで芯はりっぱな愛国者だから、杉原少佐も”反戦反軍の確証でもあがらないかぎり、自分の在任中は絶対に吉田を検挙させまい”と、心に誓ったのである。・・・

→吉田がこの時確かにこのようなことを言ったとして、仮に同じようなことをこの憲兵以外にも複数の人間に言っていたとすれば、・・その可能性は大ありですが、・・ウソを撒き散らしていることになるので、造言蜚語にあたり、罪になります。
 吉田のウソは何点もありますが、一点だけ指摘すれば、英国政府は米国にウソをつかせて日本を対米英開戦へと追い込んだのですから、自らウソをついたに等しい背信行為を行ったわけです。
 もとより、このことを証明できる証拠を当時の憲兵隊は持っていなかったでしょうから、この時点で吉田を逮捕しなかった憲兵隊の判断を咎めることはできません。
 しかし、憲兵隊と違って、証拠と法律に基づいて厳格に判断することが必ずしも求められなかったところの、ヤマの、吉田に対する、この時点で逮捕すべきだとの心証は正しかった、と言うべきでしょう。(太田)

 勅令で、「憲兵は陸軍大臣に直属し、主として軍事警察をつかさどり、兼ねて一般司法行政警察をつかさどる」とある一条から・・・陸軍大臣直属の独立機関・・・外地では軍司令官に直属する・・・であ<ったけれど、>・・・直接の責任者である外事課長が検挙を拒んでいては、陸軍大臣の命令でもない限り、<東京>憲兵隊長といえどもめったに手は出せなかった。
 すると、翌月の2月20日に、杉原課長は中佐に昇進して・・・上海に転任となった。・・・
 この・・・後に、総務課長から外事課長に横すべりしてきたのが、高坂武夫中佐であった。高坂中佐は非常な秀才であったが、上官の意のままに動く<人物>・・・である。・・・吉田検挙の陣容はまったく整ったともいえるだろう。

 岩淵辰雄<(注23)は、>・・・
 「<1943>年ごろから、われわれはなんとかして、東条や木戸の手前勝手なニュース以外に知らされない陛下に、このままゆけば日本はジリ貧で敗戦するばかりでなく、軍も一般国民も赤化して国が滅びようとしていることをお知らせしようと考えた。・・・近衛にその役を果たしてもらおうと思ったが、戦局がけわしくなると、木戸は重臣や皇族をも陛下には会わせない。・・・それが<1945>年の2月14日、ようやく・・・近衛上奏という<ことにな>った<ところ>、・・・<その時も>木戸が侍立したが、近衛はその帰りに、・・・上奏の内容<を>・・・書簡箋10枚ほどの個条書にしたものを・・・宮中の木戸の部屋に・・・おいてきた。それが木戸から、梅津参謀総長の手に渡ったのだ。近衛は、その帰りに吉田茂の本邸へ寄って一泊した。吉田がそこで、牧野伸顕に報告するために、上奏文の内容を写しとったという・・・」と語っている。・・・

(注23)1892〜1975年。「早稲田大学文科を中退。・・・ジャーナリスト、政治評論家。・・・1945年、近衛文麿を中心とする・・・早期終戦の和平工作に参加し「近衛上奏文」の草稿作成に関与したが、このため同年4月に吉田茂・殖田俊吉とともに憲兵隊に逮捕される・・・敗戦直後には日本人による自主的な憲法改正(新憲法制定)をめざし近衛に憲法改正案を作成するよう説得する。しかし彼の案が保守的内容であったことに失望し、11月、高野岩三郎を中心とする憲法研究会に参加、民間からの改正案作成に従事することとなった。彼の改憲構想は天皇から大権を除去して国民主権を実現し天皇は象徴的存在にとどめるというもので、同年末、研究会はその案を盛り込んだ「憲法草案要綱」を発表した(その後「要綱」は、これを入手したGHQによって検討され「マッカーサー草案」の内容に影響を及ぼした)。・・・翌1946年には貴族院勅選議員に選ばれるとともに読売新聞に復帰し主筆になる。その後鳩山一郎の顧問的な存在となって、第1次鳩山内閣の実現に力を尽くした。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%B7%B5%E8%BE%B0%E9%9B%8

 <4月>15日<の>・・・吉田茂の検挙・・・については、・・・証拠となったのは「上奏文の写し」であっても、実際に憲兵側で犯罪視したのは「上奏文」ではない。
 上奏文そのものが悪いならば、吉田より先に、当の近衛が拘引される筈で、結局「近衛の上奏内容や、近衛からきいた陛下のご下問状況などを、牧野伸顕はじめ、殖田俊吉、その他二三の者にもらした」ということと「関東軍や陸軍中央部が赤化しつつある。このまま戦争を継続していれば、ソ連に乗ぜられることになる」と語っていることなどが「造言蜚語罪」ということになったのである。それに、樺山愛輔邸の家宅捜索で押収した、吉田が樺山に送った手紙の一節、
「陸軍は、もはや、この戦争遂行に自信を失い、士気の沈滞は蔽うべくもなく、敗戦必至と存候」 
 というのが、反戦造語であるというのだ。」(577、581〜585、586〜587、590)

→秘密にしておくべき上奏内容や上奏の際の天皇の言葉を複数の第三者に漏らしたこともさることながら、「関東軍や陸軍中央部が赤化しつつある」とか「陸軍<の>・・・士気の沈滞は蔽うべくもな<い>」といった見てきたようなウソ・・事実に真っ向から反する・・ことを複数の第三者に伝えていた点については、造言蜚語以外の何物でもありますまい。
 吉田の逮捕は当然だったとまでは言いませんが、逮捕されてもやむを得なかったことは確かです。(太田)

(続く)