太田述正コラム#5804(2012.10.25)
<『秘録陸軍中野学校』を読む(その10)>(2013.2.9公開)

 「機関長の鈴木敬司少将も、
「私が行った時、訓練の成果をしめす、ジャングル内の戦闘演習と、図上作戦をやってみせた。そのはげしさは、日本軍隊の比ではなく、よくこれで死人や怪我人が出ないものだと思ったぐらいで、脱出志士のうち、一人が盲腸の手術の手おくれで病死した以外、一人の重傷者も脱落者をも出さなかったことは、いかに彼らが独立の念願に燃えて緊張していたかを語るものだろう」
 ともらしていた。また、鈴木機関長はこの時、一同に対して訓示しているが、
「中でも特に『軍と政治には、おのずから限界がある。ややもすると軍人は、武力をもっているので、その武力を背景に、政治に口だしをしたがるが、この点は絶対につつしまねばならない』と強調したことが、今でもはっきり私の脳裡にきざまれている」
 と、・・・中野学校<一期生の>・・・川島威伸・・・(終戦時少佐、後に自衛隊陸将補)・・・氏も語っている。・・・

→前に記したことと重なりますが、このような日本側による尽力と薫陶があって、ビルマの早期独立がもたらされたことはもとよりなのですが、何よりも、民主主義下の政軍関係を含むところの、民主主義についての日本側による薫陶があってこそ、(やや遅きに失したとはいえ、)現在進行形の、軍部による民主化(文民への政治の奉還)が可能となった、と私は考えています。(太田)

 <1941年>4月にはじまった訓練は、5、6、7、8と、月ごとに熱気を帯びて来て、9月にはほとんど完成の域に達した。そのうちの、誰一人をもっていっても充分に、中隊や大隊を指揮できるだけの実力を身につけたのである。・・・
 10月5日、・・・今までの海軍服をぬぎ捨て<させ>、全員に陸軍軍装が給付された。階級章は兵長で、つまり教育中の幹部候補生を装って台湾に入ることになった・・・。」(380〜382、385、405)

→ここのくだりからも、6か月間ではさすがにきついでしょうが、どシロウトを陸軍の将校に仕立てあげるためには、1年弱で十分であることがお分かりいただけると思います。
 実際、英国のサンドハーストの陸軍士官学校は44週間(300日余)の課程です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E7%8E%8B%E7%AB%8B%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A3%AB%E5%AE%98%E5%AD%A6%E6%A0%A1
 他方、米国のウエストポイントの陸軍士官学校は4年制大学ですが、卒業すると(軍事科学の)理学士号が与えられ、少尉に任官します。
http://en.wikipedia.org/wiki/United_States_Military_Academy
 ところが、日本の防衛大学校の場合は、卒業して(理ないし文の)学士号こそ与えられますが、三尉(少尉)に任官するのは、更に1年間(陸自要員の場合は陸上)自衛隊幹部候補生学校に行って卒業してからです。
 自衛隊は軍隊ではないわけですが、防衛大学校もまた士官学校ではない、ということです。(太田)

 「<1937>年に、わが国最初の科学防諜機関『兵務局分室』が、牛込若松町に誕生したことは前にも書いた。・・・
 <これは>組織からいえば、兵務局防衛課の分室だが、極秘中の極秘機関であったから、陸軍省でもとくによび名はなく、大臣や次官が必要とする場合は、ただ単に「調査部」と呼んでいた。しかし、機関員が相互で話し合う場合には、「ヤマ」という秘匿名をもちいていたのである。・・・
 この「ヤマ」が「ヨハンセン」(外部に知られないため、機関でつけた吉田茂の秘匿名)その他の偵諜に力をいれだしたのは、いつごろからか正確にはわからないが、・・・<1942>年の夏頃・・・からではないかと思える。・・・
 <また、>この民間防諜対策の対象となった人物の選定は、敗戦、あるいは戦局の険悪化とともに、和平運動の台頭を念頭において、選び出されたもののように思える。・・・
 個人としては、近衛文麿をはじめ、鳩山一郎、原田熊雄(くまお)、樺山愛輔(かばやまあいすけ)、植田俊吉、古島一雄(こじまかずお)、西尾末広(以上、政官界)、池田成彬(しげあき)、久原房之助(くはらふさのすけ)、加納久朗(以上、財界)、小畑敏四郎(とししろう)、鈴木貫太郎、小林躋造(以上、軍人)、松平恒雄、吉田茂、河相達夫、沢田廉三(れんぞう)(以上、外交官)、それに評論家の岩淵辰雄、賀川豊彦など、約30人が目標となったのである。・・・
 そして、この偵諜対象となった人物の自宅、および事務所の電話線を、各国大公使館同様「ヤマ」に直結させ、昼夜をわかたず盗聴することにしたのだ。・・・」(513〜514、519〜520)

→ここで名前のあがった人物を、ここで一つ一つ洗うのは余りにも煩雑なので止めておきますが、(鈴木貫太郎がいなければ終戦がうまく行ったかいささか心許ないものがあるものの、)直感的には、極めて適切な人物選定であったように思います。
 とりわけ、以下、明らかになるように、吉田茂に対する偵諜は大がかりかつ執拗なものだったわけですが、戦後の彼の国を売るに等しい醜行からすれば、何と陸軍の見立ての鋭かったことか、と舌を巻かざるをえません。(太田)

(続く)