太田述正コラム#5802(2012.10.24)
<赤露の東欧支配(その5)>(2013.2.8公開)

   イ 実力による抵抗

 「・・・戦闘は1945年には終わらなかった。
 多くの国は、実際には、戦時中に反共抵抗軍の残滓が、ポーランドの場合は、ロンドンの合法的な亡命政府の指揮の下、東方からの侵略者達との間で内戦状態にあった。
 最後のポーランドの戦士のヨゼフ・フランツァク(Jozef Franczak)<(注22)>は、1963年に待ち伏せにあって殺害された。
 
 (注22)1918〜63年。先の大戦中にポーランドの抵抗運動に参加、戦後、反共抵抗軍に参加。
http://en.wikipedia.org/wiki/J%C3%B3zef_Franczak

 エストニアの最後のパルチザンのアウグスツ・サッベ(August Sabbe)<(注23)(コラム#5466)>は、実に1978年に、KGBから逃れつつあった時に死んだ。・・・」(C)

 (注23)1909〜78年。エストニア、ラトヴィア、リトアニアの合同反ソ連抵抗運動の一員。KGBの逮捕を免れようとして、川に飛び込み自ら溺死したと考えられている。
http://en.wikipedia.org/wiki/August_Sabbe

→1972年に日本にグアムから帰還した横井庄一の場合は戦っていたわけではありません
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%BA%84%E4%B8%80
が、1974年に帰還した小野田寛郎(コラム#5784)もまた戦い続けたことはご承知のとおりです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%94%B0%E5%AF%9B%E9%83%8E
 フランツァクにしてもサッベにしても小野田にしても、彼らを支えたのは、自分達の戦いの正当性への確信であり、このような戦士を生み出したことは、(小野田の場合中野学校の教育の威力を考慮に入れなければならないとしても、)ポーランドやバルト三国の対赤露戦争や日本の対米戦の歴史的正当性を裏付けるものである、と言えるのではないでしょうか。
 どういうわけか、フランツァクの画像集の中に小野田が登場する
http://www.google.co.jp/search?q=J%C3%B3zef+Franczak&hl=ja&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=fI-GUKHKO5GImQWn6IGgAQ&sqi=2&ved=0CCIQsAQ&biw=1920&bih=919
のはイミシンですね。(太田)
   
 「・・・亀裂は、スターリンが1953年3月に死ぬと劇的に広がった。
 数か月経たないうちに、東独のいくつかの都市でストが勃発し、共産党の諸本部とロシア書の諸書店への攻撃で裏打ちされたところの、給与アップの諸要求がなされた。
 ヴァルター・ウルブリヒト(Walter Ulbricht)<(注24)>と彼の操り人形政府は、ソ連大使の諸事務所に隠れ、東独警察ではなく、ロシアの戦車群がデモ隊に発砲した。・・・」(D)

 (注24)1893〜1973年。東独の最高権力者:1960〜71年。「1931年、<ドイツ>共産党員は、警察が共産党のデモ隊員一人を殺すごとに警官を二人殺すことを決定、これを受けてウルブリヒトは同志<二名>と共謀して警官二名を殺す計画を立て、・・・党員に警官殺害を実行させている。<また、>社会民主主義を敵視する社会ファシズム論が主流だった1932年、コミンテルンはドイツ共産党に社会民主党の敵であるナチスとの協力を指示し、ウルブリヒトはナチスのプロパガンダ担当者だったヨーゼフ・ゲッベルスと組んでそれぞれの構成員や労働者組織に同時ストライキを起こさせた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%88

 その3年後の二回目のショック・・ニキータ・フルシチョフ(Nikita Khrushchev)<(注25)>が第20回ソ連共産党大会でスターリンの累次の粛清と個人崇拝を指弾した・・は、ハンガリー蜂起を引き起こした。

 (注25)1894〜1971年。ソ連共産党中央委員会第一書記:1953〜64年。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%95

 それは押しつぶされたが、全体主義の夢もまた<その時>押しつぶされたのだ。・・・」(D)

 「ハンガリー人は、ニキータ・フルシチョフによるスターリン批判を受けて、彼ら自身もスターリン批判を行ったところ、最もひどい形の勉強をさせられる羽目になった。
 1956年の12日間に及ぶ「幸福感と混沌」の間に、彼らは、いくつもの建物の赤星を引っこ抜き、スターリンの銅像を倒し、諸工場を占拠し、軍から脱走し、自分達に対してなされてきたことへの嫌悪感を示した。
 <それに対し、>フルシチョフは<ソ連の>戦車群を送り込んだ。
 結果は、341人が絞首刑にされ、26,000人が投獄された。・・・」(B)

3 終わりに

 「・・・ナチスドイツとスターリン主義のロシア<は>、恐らくは、人類史において統治したところの、最も反ユートピア的にして暴虐的で殺人的な政府<である、と言ってよかろう。>・・・ 
 アップルバウムは、どのように、スターリンが専制政治(tyranny)の型板(template)を効果的に作り出し、それを今日のシリア、金氏の北朝鮮、そしてサダムのイラクによって複写されたかを示す。・・・」(E)

 このくだりが、米国人たるアップルバウムの記述の忠実な要約なのか、それとも英国人たる書評子のモンテフィオール(Simon Sebag Montefiore)(コラム#1775、1777、1779、1850、1866、2750、5033、5095)の思いも込められているのかは定かではありませんが、前段については、毛沢東の中共をお忘れでは、そして後段についても、最初に複写したのは毛沢東の中共では、と言いたくなります。
 米英の知識人が、戦後になるまで、先の大戦を共に戦ったスターリン主義のロシアに極めて甘かったことを思い出さざるをえません。
 このことと同様、彼らは、第二次冷戦を共にスターリン主義のロシアと戦ったところの、毛沢東の中共に極めて甘いのでしょう。
 中共の場合は、米英と日本の中共との物理的距離の遠近、という違いもこのことと関わっているように思います。
 中共を警戒し中共に厳しくあれ、と声高に唱えることは、日本の知識人の世界に対する責務である、と私は信じて止みません。

(完)