太田述正コラム#5792(2012.10.19)
<『秘録陸軍中野学校』を読む(その9)>(2013.2.3公開)

 「<1940年春にビルマからインド経由で>海路アモイに脱出した[ビルマ独立運動のリーダー格の]オンサンと[オンサンの同志の]ラミヤンは、中国との連絡をとろうとしたがうまくゆか<なかった。>・・・台湾からの手配写真をうけとった・・・憲兵隊の神田少佐<が>・・・二人の姿を発見し・・・日本への亡命を承諾<させた。>・・・ビルマから帰っ<ていた>鈴木<敬司>大佐・・・は自分<の宿に>案内し・・・翌日・・・二人を参謀本部へ連れて行ったが、藤原岩市参謀が関心をしめしただけ<だった。>・・・
 鈴木大佐<は>・・・身銭をきって、宿泊費はもちろん、散髪代から風呂銭まで支払<うとともに、大佐と心を一にする民間人等も金策に奔走した。大佐は、更に>二人を郷里の浜松<の>実家へ預け<、次いで>・・・浜名湖畔<の旅館やホテルを>転々させた<後>・・・東京杉並高円寺に下宿させ、翌年二月までかばい通したのである。・・・
 そのうちに、雨季で閉鎖していたビルマ・ルートは、乾期を迎えて再開され・・・たから、わが陸海軍では、またまた、遮断対策が重要問題として論議にのぼった。<そこで、>参謀本部でも、<1940>年12月頃から、・・・<ビルマ工作を>研究しはじめたのである。・・・<他方、>軍令部では、・・・陸軍よりも一足先に、ビルマ工作実施を決定したのだ。
 <そして、>参謀本部に話をもちこんだのである。参謀本部<は>・・・海軍側に名を成させてなるものかと、・・・急に鈴木大佐の工作を既成事実としてみとめ・・・たのである。・・・<結局、>いつまでも海陸角つき合っているのもまずいという声もあって、海陸合同でやることにな<った。>
 <こう>して・・・<1941年>2月1日、大本営直属の「南機関」が生まれたのである。・・・
 機関長は鈴木敬司大佐<以下、陸軍は>中野学校出身者<[3名を含む5名、海軍の要員が3名、民間の要員が4名であり、]ビルマ人は、>オンサン、ラミヤンのほかに、日本留学中のソーオンの三名が名をつらねたのである。」(314〜319)
 (以上、[]内は下掲による。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%A9%9F%E9%96%A2 )

→大本営が1937年11月20日に設置されていたところ、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%96%B6
その効果なのか、陸海連携が結構行われていたことをうかがわせますね。(太田)

 「<その月のうちに、>バンコック<に南機関の>秘匿名の「南方企業調査会タイ国本部」の看板があがった。・・・
 <そして、>タイとビルマの国境沿いの北部チェンマイ、中部のラーヘン、南部のカンチャナブリと、最南端のラノンに、それぞれ支部をつくって人員を配置<した。>・・・
 タイもマレーもビルマ人も(英国人と結びつき、利益をむさぼっている王侯や富豪は別だが)一般庶民は永い白人の圧政に、表面はともかく、心の奥底では白人に対する不信感と(いつかは復讐してやるぞ)という敵愾心をもっていた。そしてその反対に、同じ有色人種である日本人には親密感、親近感を抱いていて、進んで協力的だったから、裏切り行為にあうこともなかったわけで、藤原機関、南機関の成功の裏には、そうした国民感情の支えがあった・・・。・・・
 <ところが、陸海軍要員の間で反目が起きたため、1941>年の夏、海軍側は全面的に手をひいて、南機関は・・・陸軍のみの工作機関となった・・・。」(358〜359、367、373)

→大本営は設置されていても、陸海軍間で、若い頃の人事交流や、各種レベルにおける共同教育が行われておらず、このような交流経験者を配置できなかったことが、このような、出先における両者間のいらざる軋轢を生んでしまった、ということでしょうね。(太田)

 「<1941年>2月・・・オンサンと<民間要員の>杉井満を<日本の貨物船>にのせて、ビルマへ送ることにな<り、それに成功した。>・・・。・・・
 <そしてオンサンが集めた同志数名を再びこの船にのせてビルマを脱出することにも成功した。その後、何度も同志を脱出させ、予定していた30名のビルマ人志士確保に成功した。>・・・
 <一旦、日本に集めてから、>これを<1941>年4月から順次爆撃機で海南島の<帝国>海軍基地三亜へ送りこんだ・・・。
 その三亜から50キロの奥地のジャングルの中に、秘匿名を「三亜農民訓練所」と呼ぶ「南方移住開拓農民養成」という偽目的でつくられた、彼らの訓練機関が用意されてあった。所長は・・・海軍少佐<だったが、>・・教官や班長はみな、陸軍<軍人であり、>・・・教官<には>・・・多くの中野学校出身将校や下士官<がおり、>・・・軍事はもちろん、政治、経済、諜報工作のはげしい訓練がはじまったのである。・・・
 <これは、>現地と風土や気候が似ているからだ・・・と<鈴木大佐が(台湾を主張した陸軍に逆らって)あえて海軍が主張した海南島を選んだものだ。>・・・
 <結局、>6月、台湾軍研究部で、南方作戦での兵隊の耐久力を研究する時も、海南島一周数千キロのコースがえらばれている。これはちょうど、タイの南部に上陸して、シンガポールにたどりつくまでの距離で<あり>、演習計画を担当したのが例の辻政信<だった>。・・・
 この南機関にしても、また、・・・F機関にしても、同じ床に寝、同じものをわけ合って、一緒に飲み食いしたことが、インド人やビルマ人に限りない親愛感をもたせた大きな原因となっている。白人は、いかに親しい間柄でも、インド人やビルマ人と、卓を囲んで食事をしたり、同じ寝床へ共に寝るようなことはない。白人らの心の中には、いつでも、白人が彼らより、一段上の民族であるかのごとき優越感があぐらをかいているので、これがつねに白人のアジア問題に対する失敗の遠因となっている。」(320、372〜374、376〜379)

→ミャンマー(ビルマ)政府が、「改革開放」プラス民主化路線に切り替えるにあたって日本をパートナーに選んだ(コラム#5777)ことや、更に遡って民主化路線を遅ればせながら選択したこと、の原点はここにある、と言えるでしょう。
 なお、最後のくだりは、中野学校出身者等からの聞き取りを踏まえたものなのか、それとも畠山自身の思い込みなのか定かではありませんが、私に言わせれば、いささか不正確であり、英国人は、現地人に干渉しない代わり、現地人が自発的にアングロサクソン化すれば、自分達の完全な一員として遇したのに対し、英国人以外の欧米諸国人は、現地人を積極的に「教化」しようとし、「教化」された者を自分達の劣等なる一員として遇した、という違いがあったのです。(典拠省略)(太田)

(続く)