太田述正コラム#5716(2012.9.11)
<ウェデマイヤー(その1)>(2012.12.27公開)

1 始めに

 ジョン・マクラフリン(John J. McLaughlin)が上梓した『アルバート・C・ウェデマイヤー将軍(General Albert C. Wedemeyer)』のさわりを下掲の3つの典拠に拠ってご紹介し、私のコメントを付けることにします。

A:http://online.wsj.com/article/SB10000872396390444506004577617173821008772.html?mod=WSJ_Opinion_LEFTTopOpinion
(書評(以下同じ)。9月10日アクセス)
B:http://www.nj.com/entertainment/arts/index.ssf/2012/06/general_albert_c_wedemeyer_a_b.html
(9月11日アクセス)
C:http://www.dcdave.com/article5/111117.htm
(この本を引用した記事。同上)

 アマゾンで、7名もの読者がこの本の感想をアップしており、その全員がこの本に最高評価を与えています
http://www.amazon.com/GENERAL-ALBERT-C-WEDEMEYER-Strategist/product-reviews/161200069X/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending
が、こんなことは前代未聞ではないでしょうか。
 他方、マクラフリンの経歴等については、ちょっと調べた限りでは、ネット上に手がかりが全くありません。
 これまた、こんなことは経験したことがありません。
 誰かが、匿名でこの本を書いた、ということなのでしょうか。

2 戦前・戦中

 「・・・アルバート・コーディ・ウェデマイヤー(Albert Coady Wedemeyer。1897〜1989年)・・・は米陸軍士官学校を1919年に卒業した。
 彼はもう一度ドイツとの戦争が起きることを予見し、[1936年から38年にかけて]ドイツ陸軍の著名なる参謀学校である[ベルリンの]戦争大学校(Kriegsakademie)で学んだ。
 そこで、彼は、電撃戦(blitzkrieg)の何たるか(art)を彼の将来の敵達と一緒に学んだ。
 彼は、ナチの茶シャツ隊(brownshirts)<(注1)>が、ユダヤ人に対する憎しみをぶちまけながらこれみよがしにベルリンを徘徊するのを眺めた。

 (注1)茶色のユニフォームを着ていたナチSAのメンバー
http://ejje.weblio.jp/content/Brownshirt

 ドイツによるオーストリア併合(Anschuluss)の時は彼はウィーンにいた。
 そして、チェコスロヴァキアの危機の成り行きをドイツ側から見た。・・・
 1939年に米陸軍参謀長になった・・・マーシャルは、ウェデマイヤーを<陸軍省の>戦争計画課(War Plans Division)に配置し、一つの文書へと米国の動員目標(requirements)を集約するよう命じた。
 1941年夏、ローズベルト<大統領>からの要請に応えて、ウェデマイヤーのチームは、この文書を、将来の戦争において米国の敵になりそうな者達をどう敗北させるかの青写真へと拡大した。
 驚くべきことに、<彼らは>わずか90日間で<それを>やってのけたのだが、この計画は、迫りくる紛争のための緊要なる政治的・軍事的・産業的な諸仮定の列挙、米国の諸敵と主たる戦闘が起こるであろう場所を同定し、支那、ソ連、英国と米国の戦争手段(war machines)に補給するために必要な産業能力、及び同盟諸国にどれだけの戦争物資を回すか、を推計した。
 ウェデマイヤーは、ドイツと日本を900万人近い徴兵陸軍でもって席巻するという提案を行った。
 この数なら、米国内に十分な工場労働者と農民を残して、部隊に食糧を供給するとともに、戦車、爆撃機、そして砲弾を組み立てラインから送り出すことができる、と結論付けた。
 彼はまた、ドイツが防御を固めることができる前の1943年に欧州大陸に侵攻することを唱えた。
 ウェデマイヤーの作業結果は、米海軍の諸推計及び民間の産業計画と結合されて、「勝利計画(Victory Program)」となった。
 しかし、米国が参戦した時、米国の戦略計画立案者達(strategists)は、英国の戦略計画立案者達が、欧州大陸への早期の侵攻という、この計画の鍵となる部分の1つ[・・ローズベルトが同意していた・・]に激しく反対であることを発見した。
 ウィンストン・チャーチルと彼の副官達は、1943年時点での英仏海峡越しの侵攻は大災厄に終わるのは必至である、と確信していた。
 [チャーチルは、第一次世界大戦のおぞましい大殺戮を目撃しており、・・・英仏海峡越しの侵攻計画に、この戦争に勝利を収めるのに必須であると見なされるようになるまで反対し通したのだ。]
 彼らは、それよりも、長期的な空爆、海上封鎖、プロパガンダ、地中海の占拠、そして恐らくは、欧州の「柔らかい下腹部(soft underbelly)」ということになっていたところの、北イタリアかバルカン半島における攻勢、の方が良いと言ったのだ。
 ウェデマイヤーは、1942年6月に、ホワイトハウスで、ローズベルト、チャーチル、そして英米の参謀長達と会って、理路整然と、どうして1943年に侵攻すべきかを主張し、チャーチルがより好んだところの、北アフリカへの侵攻に対して、直截的にして毅然とした反駁を行った。
 「チャーチルは、中級クラスの米国の将校が彼の大図式を掘り崩す情報を決然と示したことに不快感を覚えたことだろう」とマクラフリン氏は記す。
 「時々チャーチルの方向に密かに一瞥をくれながら、ウェデマイヤーは、有名なチャーチルのしかめっ面のかすかなおももちを探知した」と。・・・
 米国の各軍の長達は、英国の心からの支援がなければ成功は期待できないと思って、引き下がった。
 ローズベルトは、米軍部隊ができるだけ早くドイツ軍と交戦することを公衆が欲していると感じ、1942年末における北アフリカへの侵攻を命じた。
 ウェデマイヤーは、最後の最後まで、連合国は、一年早くこの戦争に勝つこと、米国人の命を救うこと、そして、恐らくは、東欧におけるソ連の覇権確立を回避すること、の機会を失う、と言い続けた。・・・」
 (A。ただし、[]内はBに拠る。)

 「・・・皮肉なことに、1944年6月6日のノルマンディ上陸作戦が始まった時点では、ウェデマイヤーは、問題のあったジョセフ・スティルウェル将軍の後任として、既に支那に派遣されていた。・・・
 自他共に許す反共主義者であったウェデマイヤーは、毛沢東が支那を乗っ取ることを防ごうと試みたがそれに失敗した。・・・」(B)

(続く)