太田述正コラム#5704(2012.9.5)
<日本の陪審制と裁判員制度>(2012.12.21公開)

1 始めに

 袖擦り合うくらいのご縁のあった但木敬一元検事総長が、『學士会報』(No.896 2012-V)に「140年の歳月」と題して日本の陪審制と裁判員制度の歴史を書いてます。
 そのさわりをご紹介するとともに、私のコメントを付しました。

2 日本の陪審制と裁判員制度の歴史

 「・・・明治7年の佐賀の乱で江藤新平が、明治9年の萩の乱で前原一誠が裁判とは言えない裁判で判決の日に処刑された。これに怒った福沢諭吉は、明治10年の西南戦争で西郷軍の敗色濃厚となるに及び、下中津藩士の名義で三条実美太政官宛に「願書」を出し、世人に公平と思われる裁判をすべきであり、そのためには、皇族、非役華族、各府県士民で名望のある人を陪審官として裁判すべきだと建白した。大久保・伊藤ラインと福沢や自由民権派は「陪審」をめぐって対立することとなった。・・・まず富国強兵を図らなければ西洋の譲歩を得るのは難しいと考え<た>・・・大久保(明治11年5月暗殺)・伊藤ラインは結局富国強兵の道を選んだ。

→大久保はさておき、少なくとも伊藤は、国民の立法や司法への関与に反対していたわけではなく、段階的、漸進的に関与を実現させたいと考えていた(コラム#省略)のであり、富国強兵の方はただちに着手すべきだと考えた、ということでしょう。
 また、着手したところで、富国強兵だって一日にてはならずというものです。
 従って、「富国強兵の道を選んだ」という表現は疑問です。(太田)

 明治12年6月、フランス人法律顧問のボアソナードは陪審制を取り入れた地罪法草案を完成させた。元老院はこれを概ね認めたが、太政官大書記井上穀<(注1)>の猛反対により陪審の部分は全面削除となった。井上は大久保の影響を強く受けていた人物であり、大日本帝国憲法の有力な起草者の一人であった。旧憲法第24条には「日本臣民ハ法律ニ定メタル裁判官ノ裁判ヲ受クルノ権ヲ奪ハルルコトナシ」との文言が盛り込ま・・・れ、裁判官以外の者が裁判をすることは文理上禁じられることとなり、陪審の灯は消えたかに見えた。

 (注1)1844〜95年。伊藤博文は、イギリス式の国家建設を目指していた(コラム#省略)ところ、「明治十四年の政変の際には井上が勝手に岩倉具視に対してドイツ式の国家建設を説いてこれを政府の方針として決定させようとした事を知った伊藤は井上に向かって「書記官輩之関係不可然」と罵倒・・・している。」
 しかし、伊藤は、そんな「井上を「忠実無二の者」と評し、・・・能力を高く買い信頼もし・・・ブレーンとして活躍」<させた。>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%AF%85

→この論考には一切典拠が付されていませんが、旧憲法の条文をどう読んでも「文理」上陪審制が禁じられたとは私には読めません。
 それに、かねてより指摘している(コラム#省略)ように、旧憲法・・新憲法も同様だが・・には規範性がないとしか考えられないのであって、旧憲法が「文理」上禁じていたとも考えられる議院内閣制が大正デモクラシー下で実現したことに照らせば、陪審制については、実現に何の支障もなかったと言えそうです。(太田)

 ところが明治末期、・・・検察<の>・・・平沼・・・騏一郎<(コラム#5188参照)>・・・の指揮のもと大逆事件が摘発されたが、証人調べすら行われずに、天皇の名において多数の死刑判決を下したことから、司法に対する不信が天皇主権に対する反発につながりかねないと感じ、原<敬(コラム#52、3772、4327、4596、4598、4604、4627、4640、4647、4649、4669、4752、5589)(注2)>は陪審制の導入こそ喫緊の課題と決断した。・・・

 (注2)1856〜1921年。「外務次官、大阪毎日新聞社社長、立憲政友会幹事長、逓信大臣(第11・16代)、衆議院議員、内務大臣(第25・27・29代)、立憲政友会総裁(第3代)、内閣総理大臣(第19代)、司法大臣(第22代)などを歴任した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

 大正7年(1918年)、原は我が国で初めての本格的な政党内閣を打ち立て、翌8年陪審制の導入を閣議決定した。原は、議会の答弁で人民に参政の権が与えられているのに、司法ひとり国民の参与を許していないのはおかしいという旨の答弁をしている。・・・原は大正10年東京駅頭で暗殺された。しかし陪審法は大正12年に成立し、昭和3年(1928)から昭和18年までの15年間実施された。・・・

→改めて、原敬は偉大な政治家であった、と思います。(太田)

 華やかに登場した陪審制だったが、昭和4年の140件をピークに減少し始め、年間数件という惨状となり、戦況が悪化した昭和18年、今次戦争終了後の再施行の条件付きで、停止されることになった。陪審に付された件数は15年で480件余であった。
 旧憲法の制約を受け、陪審の決議には裁判官に対する拘束力が認められず、陪審の結論に異論のある裁判官は新たな陪審による審理を求めることもできた。死刑・無期にあたる否認事件は法定陪審とされていたが、これとて被告人には陪審辞退権があり、裁判官や弁護人がこれを慫慂していたなど陪審制挫折の理由を挙げる論者もいる。しかし、天皇主権と国民の司法参加、これは原理的に矛盾しているがゆえに、時代に流される宿命を負い、国民にも定着せず、法曹実務家にも受け入れられなかったのではあるまいか。」(19〜21)

→最後のセンテンスには激しく不同意です。
 戦前の日本は、旧憲法に規範性がなく・・仮に規範性があったとしても憲法が変遷し・・、最初は天皇主権であったけれど、大正期にイギリス流の議会主権・・自由民主主義的体制と言ってもよい・・へと移行した、というのが私の見解であり、イギリスにおいて、議会主権と陪審制が歴史をどこまで遡っても両両あいまって機能していたことからして、議会主権と国民の司法参加が「原理的に矛盾している」わけがありません。
 戦前の日本で陪審制が活用されなかったのは、検察や裁判所に対する国民の信頼が基本的に厚かったから、ということでしょう。(太田)

 「・・・裁判員制度は、・・・平成16年5月21日「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」が成立し、平成21年5月21日から実施された・・・。司法制度改革審議会が陪審か参審かで収拾のつかない対決論争になりかけたとき、・・・論争に終止符を打ったのは、・・・松尾浩也・・・<學士会>理事長で<あるが、同氏は、>・・・刑事訴訟法学者という視点から<以下のように記している。>「裁判員制度の骨格は、無作為抽出・・・である点と、一件だけ負担して終了する点が、アメリカ流の陪審制度と共通でした。一方、ドイツ・フランス流の参審制度との共通点は、事実認定と量刑の双方に干与すること、手続きの全般を裁判官と一緒に判断することです」(21〜22)

→私が、シロウトが、「事実認定と量刑の双方に干与すること、手続きの全般を裁判官と一緒に判断すること」に反対であり、裁判員制度は英米流の陪審に改めて改編すべきであると考えている(コラム#省略)こと、はご承知のことと思います。(太田)