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太田述正コラム#5684(2012.8.26)
<戦前の衆議院(その14)>(2012.12.11公開)

<風見章(注20)議員>(同上)

 (注20)1886〜1961年。早大政経卒(雄弁会所属)。
 「国際通信、朝日新聞記者などを経て、1923年から5年間、信濃毎日新聞主筆として労働者や農民の側に立った論陣を張った。1928年、・・・衆議院議員総選挙に茨城3区から出馬するも落選。1930年、・・・立憲民政党からトップ当選(以後4回連続当選)、1932年には脱党し国民同盟に参加した。1937年に近衛内閣が成立すると、首相となった近衛文麿は当時全く面識の無かった風見を書記官長に抜擢。風見は日中戦争の終結を目指すが、直後に盧溝橋事件が勃発した。近衛内閣の不拡大路線は挫折し、和平は実現しないまま内閣総辞職となった。1940年5月、軍部の力を抑制し中国との戦争の早期終結を目指して、近衛を党首とする新党の結成を目指す新体制運動を、有馬頼寧らと共に開始。近衛文麿、木戸幸一、有馬頼寧の3名が5月26日付で「新党樹立に関する覚書」を作成した際には、既成政党を全て抹消するよう進言している。近衛がこれに賛同し、7月発足した第2次近衛内閣で風見を司法大臣にした。特に立憲政友会・立憲民政党の2大政党に内紛を惹き起こさせて同党を解散に追い込む政治工作(風見や有馬達はこれを「政党爆破工作」と称した)・・・<を行>った。・・・10月大政翼賛会の結成に至ると、風見は12月に大臣を辞任する。書記官長就任以前からの親友であり、書記官長時代に風見が内閣の嘱託に抜擢した尾崎秀実が41年10月にゾルゲ事件で逮捕され、風見自身も証人として検察当局の尋問を受けるなど政治的に苦境に立たされたこともあり、1942年4月の翼賛選挙には出馬せず・・・。・・・
 1951年<に、彼は、>尾崎をマルクス主義の殉教者と評し、「わが尾崎が、絞首台にはこべる足音は、天皇制政権にむかって、弔いの鐘の響きであり、同時に、新しい時代へと、この民族を導くべき進軍ラッパではなかったか、どうか。解答は急がずともよかろう。歴史がまもなく、正しい判決を下してくれるにちがいない」と述べている。・・・
 1946年、・・・公職追放・・・。1951年の追放解除後、翌1952年の第25回衆議院議員総選挙に無所属で当選(以後5回連続当選)し政界復帰する。・・・翌1955年・・・に左派社会党に入党、・・・<同年の>左右社会党統一時に党顧問となった。・・・1957年には訪中して周恩来と会談した。また、岸信介内閣の台湾政権支持、長崎国旗事件に反発し、1958年7月14日、中島健蔵、細川嘉六、伊藤武雄と連名で中国への「侵略」に対する「反省声明」を発表した。1959年より体調を崩し、翌年9度目の当選を果たすも、1961年12月・・・に死去。・・・叙正三位、叙勲一等授瑞宝章。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%A6%8B%E7%AB%A0
 左右社会党が統一されたのと同じ1955年に自由民主党が結成され、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
ここに55年体制なる第二次大政翼賛会が事実上の発足を見たわけだが、風見を始めとする赤露の手先達・・勝手連的手先であった者と文字通りの手先であった者とがあったであろう・・が少なからず社会党に棲息していたにもかかわらず、吉田ドクトリンの牙城たる自由民主党は、このような社会党と裏で手を握ることによって、日本の米国からの「独立」を、米国の意向に反してものの見事に回避し続けた、ということだ。
 こんな風見に、自由民主党政権が叙正三位、叙勲一等授瑞宝章を遺贈したことは象徴的だ。

 「・・・日本は現在支那四億の民衆を痛め付け、悩ましつつある深刻なる農業恐慌の克服に関し、吾々はどれだけ、どんな方法に依って、其の克服を助け得るか、此の方針を定めることが経済外交の根本でなくちゃならぬ。・・・

→当時の支那(除く満州)は日本の植民地でも保護国でもなかったのですから、余計なお節介である、としか形容のできない発言です。(太田)

 此の不穏文書等取締法案に関しては定めて与党たる民政党、政友会、昭和倶楽部の諸君と雖も同感だろうと思うが、・・・正に国民の耳に鍵を掛け、国民の口を縫い付けようとする驚くべき乱暴なる法案である。・・・

→風見の有事意識の欠如を示すと思われるくだりです。(太田)

 五月一五日以前、あれより三箇月前の総選挙に於いて政友会、民政党の選挙における戦い振りから見ますれば、此の二つは一緒になる筈はありはしない、正に両党とも国民に向かっては徹底して政党政治を守ると約束した、其の選挙あって三箇月後に政友会、民政党の諸君はどうなった。一たび五・一五事件に出会わすや、其の約束は弊履を捨つるよりも、もっと容易く捨て去って、知らぬ顔して齋藤挙国一致内閣を助けた。信義を重んずべきは軍人だけじゃない。・・・斯の如き行動がお互い国民の常識に於いて信義上果たして欠くる所ないか、甚だしく欠けて居るのではないか。・・・今日まで政界を茶毒した根本原因は、政党が政権に恋々として、一たび政権の前に立つや、握り飯の前に餓鬼の如く、唯政権にありつきさえすれば宜い。このふざけたる態度が、政党の魂を失わしめた根本原因なんだ。・・・」(183〜185)

→二大政党間の政争の醜さは風見の指摘通りだとしても、平時ならば、その程度のことは民主主義のコストとして受忍すべきなのかもしれません。
 しかし、問題は、日本が有事に突入していたことです。
 仮に当時の日本で憲政の常道が美しく機能していたとしても、なおかつ挙国一致内閣をつくる必要があったにもかかわらず、つくるのを怠っていたところに五・一五事件が起こり、遅ればせながらあわててつくるに至った、ということが、有事意識の欠如していた風見には理解できなかった、というわけです。
 私は、風見は、尾崎秀実同様赤露の手先として行動していて、日本の対赤露有事体制の構築を妨げるためにこのような演説を行った可能性すら排除できないと思います。(太田)

<廣田首相>(同上)

 「・・・如何なる訳か、或る方面に此の内閣に対して初めから反対を標榜して掛かって居らるる方があるように思うのであります。全くそれは私の不徳の致す所だと思いますが、此の時局に対する認識が余程不足して居る方ではないかと思うのであります。・・・」(189)

→このような廣田の答弁ぶりから忖度する限り、外務官僚あがりとはいえ、さすがに廣田は風見のうさんくささに気付いていたように思われます。
 第一次近衛内閣が発足した1937年に、こんな風見のような赤露の手先的人物を、碌にその人となり等を知らずして、内閣書記官長という重要なポストに抜擢した近衛文麿は、いかに無能かつ異常な人物であったか、ということになります。
 近衛が、その折、「治安維持法違反の共産党員<等>・・・の逮捕・服役者を大赦しようと主張し」た(実現せず)のは驚くにあたりませんが、手のひらをかえすように、第二次近衛内閣が発足した1940年には、(風見を今度は司法大臣に就けつつ、)岸信介商工次官(当時)らの「革新官僚を「国体の衣を着けたる共産主義者」として敵視」したり、更には、1941年に露見したゾルゲ・尾崎事件に係る(風見を通じた)自らの責任を棚に上げて、「1943年・・・から<は>・・・軍部赤化論や共産革命脅威論を唱え始め」たというのですから、厚顔無恥、ここに極まれり、という感があります。
 (以上、事実関係は下掲による。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF )
 なお、第一次近衛内閣の時の、近衛--風見コンビのダッチロール振り・・風見の振付に従って近衛が動いた可能性がある・・を取り上げるのは、別の機会に譲ることにしましょう。(太田)

(完) 

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