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太田述正コラム#5678(2012.8.23)
<戦前の衆議院(その11)>(2012.12.8公開)

<三善信房(注18)議員>(同上)

 (注18)1882〜1965年。「政治家・農業指導者。旧制熊本県立熊本中学校(現・熊本県立熊本高等学校)を卒業し、高等小学校に勤務した。1919年<から>・・・連続3期県会議員に当選した。・・・1932年の第18回衆議院議員総選挙に県会選挙同様政友会公認で立候補し初当選、以降連続4回衆議院議員総選挙に当選した。中央政界に入ってからは馬政局参与等を務め、1939年の政友会分裂に際しては久原房之助や鳩山一郎らとともに正統派に所属した。政党解消後は翼賛議員同盟・翼賛政治会・大日本政治会に所属。1945年5月には鈴木貫太郎内閣の厚生政務次官に就任した。・・・1942年の翼賛選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受けて立候補し当選したため<戦後>公職追放。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%96%84%E4%BF%A1%E6%88%BF

 「・・・我国四囲の国際情勢から見まして、国防の充実整備の緊要なることは、今更申す迄もないことであります。併しながら国防は独り兵備の充実に依ってのみ整備し得るものではありませぬ。是と同時に国民経済力の充実を図り、以て一朝事有る際に十分銃後の責任を果し得るの途を講ずることに依って、初めて国防の完璧を期し得るものであると深く信ずる者であります。・・・
 彼の朝鮮に於きまして、十年前の朝鮮のコメの生産額と今日とを比較致しますれば、実に四割の増産になって居るのでありまして、既に今日台湾、朝鮮に於きまして二千七百万石の米を生産致して居る状態であります。是から考えますれば、満州に於て数千万石の米が出来るのも、決して是は机上の空論ではないと私は思うのであります。・・・農村の子弟が第一線に立って働いた結果が、今日満州国の独立を来したのであると思うのであります。其の独立したる満州国に米を作ることに依って、軈って農村の子弟が満州米の為に悩むようになって参りましたならば、何の為に血を流したか意義をなさないと思うのであります。固より満州国と我が国とは共存共栄でなければなりませぬ。其の為には我が国の農村に生産出来ない物、又我が国の農村に生産しましても尚お足りない物、例えば、小麦とか、大豆とか、小豆とか、或いは高粱、或いは棉花、緬羊、斯様な物を大いに奨励すべきものであります。」(149〜150、156)

→議員の誰もかれもが「国防の充実整備」を叫んでいたことに改めて注意して欲しいと思います。
 興味深いのは、三善が言及しているところの、台湾、朝鮮(半島)における米の飛躍的増産とそのことにもよる、日本の(東北を中心とする)農村の疲弊です。
 つまり、ここからも、本土の犠牲の下に植民地の発展に尽くした、日本の帝国主義の、欧米諸国の同時期の帝国主義では到底考えられない、人間主義性がうかがえるわけです。(太田)

<麻生久(注19)議員>(同上)

 (注19)1891〜1940年。「政治家・労働運動家。・・・旧制大分中学校(現・大分県立大分上野丘高等学校)、第三高等学校を経て、1913年東京帝国大学仏法科・・・。・・・1917年、東京日日新聞(現・毎日新聞)に入社。翌1918年・・・には吉野作造らとともに大正デモクラシーの啓蒙組織である「黎明会」を立ち上げ、新渡戸稲造・大山郁夫・小泉信三・与謝野晶子ら錚々たる知識人・文化人を参加させた。また東大新人会にも先輩グループとして参加している。1919年友愛会に入り、・・・<同>会を急進的・戦闘的な組織に改革していった。1920年には全日本鉱夫総連合会を設立し、足尾銅山・日立銅山・夕張炭鉱などでの争議を指導、たびたび投獄された。1925年、友愛会の後身である日本労働総同盟の政治部長となり、無産政党運動に参加、翌1926年に結成された労働農民党の中央執行委員となる。労働農民党が党内の左右対立により分裂すると、三輪寿壮・三宅正一・山名義鶴らとともに同年12月日本労農党を結成する。以後、日本大衆党、全国大衆党、全国労農大衆党と中間派無産政党の書記長・委員長を務める。1932年、全国労農大衆党は社会民衆党と合併して社会大衆党となり、麻生は書記長に就任した(委員長は安部磯雄)。この頃から、軍部の「革新派」と連携することで社会主義勢力の拡大を企図するようになり、1934年陸軍省が「国防の本義と其強化の提唱」なるパンフレットを発行すると、これを「軍部の社会主義的傾向の表現」として高く評価する声明を出した。以後、親軍派で国家社会主義の信奉者でもあった亀井貫一郎とともに社大党の全体主義化を推進してゆく。1936年東京都から衆議院議員総選挙に出馬し当選、1937年再選された。同年日中戦争が勃発すると、局地解決・事変不拡大を条件に政府を支持、軍事予算も承認した。1938年には近衛文麿を党首とする新党結成を画策した。1939年に中野正剛率いる東方会との合併を試み、右翼との連携を模索していた。1940年2月に起きた、斎藤隆夫代議士の反軍演説問題については衆議院除名賛成の立場を取り、反対に回った党首の安部をはじめ、鈴木文治・片山哲・西尾末広・水谷長三郎・松本治一郎らを党除名処分とし、自らが後任の党首となった。同年、近衛の新体制運動に積極的に協力し、7月には他党に先駆けて社大党を解党させた。第2次近衛内閣においては新体制準備委員会委員となる。1940年・・・心臓麻痺のため逝去。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E4%B9%85
 この記述中の「全体主義化を推進してゆく」は間違いだ。
 当時の日本の民意は、「左」も「右」も、日本の、政局ばかりに現を抜かす代議士達、成金の言動、及び大恐慌下の米英の対外経済政策等から、アングロサクソン流の(二大政党による)議院内閣制と資本主義に幻滅しており、また、有事意識もあり、象徴天皇制/議会制自由民主主義的国体を維持しつつ、挙国一致内閣の樹立と軍事・非軍事官僚(含むOB)への授権を希望していた。
 かかる民意を踏まえ、「左」サイドから、日本型政治経済体制の樹立に向けて尽力したのが麻生久だった、と解するべきなのであり、これは断じて「全体主義化」などではなかったのだ。

(続く)

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