太田述正コラム#5650(2012.8.9)
<欧米帝国主義論再考(その3)>(2012.11.24公開)

 (4)反欧米帝国主義思想

 「・・・<次いで、>ミシュラは、<日露戦争の結果に刺激を受けた>エジプト、イラン、トルコ、インド、そして支那における反欧米運動の発展を、これを鼓吹し育んだところの、思想家達や革命家達の人生や著作を通じて検証する。・・・」(D)

  「・・・彼は、欧米に対する叛乱を<思想的に>指導した何人かの知識人に焦点をあてる。・・・」(B)

 「<一人は、>コスモポリタンで初めてイスラム教を反欧米的なものと規定し[、その著作が、その死後1世紀以上を経て今なお強力な影響力を発揮している]ところのジャマールッディーン・アフガーニー(Jamal al-Din al-Afghani。1838〜97年)(注2)<(コラム#2270)であり、もう一人は、>[20世紀初頭の支那における最も偉大な「公的知識人」であり、]広範な影響力を発揮したジャーナリストで欧米の物質主義を攻撃し孔子の理想を擁護した梁啓超(Liang Qichao。1873〜1929年)<(注3)であり、最後の一人は、>アジアの指導者達を自分達自身の伝統を蔑にして欧米の発展モデルを推進しているとして批判したところの、[マハトマ・ガンディーとこの種のことについて長年にわたって書簡を交わした]ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore)<(注4)(コラム#318、777、1455、1677、1992、4477、4553、5195)だ。>・・・

 (注2)「汎イスラム主義を唱えた。イスラーム世界に外国の統治が及ぶのを拒絶<するとともに、>・・・絶対君主制よりも、法による統治が優れていると<し、>・・・、列強による植民地化・・・<や>半植民地化(例えば、ペルシャ、トルコ、エジプト)が進展する現実を直視しないで、有効なレジスタンスを築くことのできない王朝は、イスラーム世界を防衛する責任を果たしていないし、その能力を欠いているという認識<の下、>・・・オスマン帝国や<イランの>ガージャール朝の専制体制を批判した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%83%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%BC
 (注3)「日本亡命<時代(1898〜1911年)には、>・・・日本語を通じて西欧の思想を積極的に吸収し、それを著作に反映させていった。・・・彼は明治日本を通じて清末の青年たちに向けて中国以外の思想やものの考え方をわかりやすいことば(新民体)で発信し続けた。現在の中国語にも多くの和製漢語が使用されているが、その端緒を開いたのは実に梁啓超であった。そして胡適・毛沢東をはじめ、感化を受けた清末青年は多<い。>
 晩年<(1921〜1929年)には、>・・・伝統中国の思想や文化への再評価へと向かい、物質主義的な西洋文明を中国文明の精神と融合させるための学術研究に没頭していくことになる。1923年には清華大学教授、ついで北京図書館の館長となっている。影響力を強めつつあったマルクス主義に対しては、中国には階級的な社会構造が存在しないこと、共産主義の理念は外来の理論ではなく中国の伝統の中にも求めるべきであるなどの理由で批判的であった。
 梁啓超は知識や学問について書いた文章で、フランスのヴォルテール、日本の福澤諭吉、ロシアのトルストイを「世界三大啓蒙思想家」のトップとして紹介し、三人の生涯や功績を紹介している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E5%95%93%E8%B6%85
 (注4)「早くから日本に対する関心も深く、岡倉天心・河口慧海・野口米次郎<
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%8F%A3%E7%B1%B3%E6%AC%A1%E9%83%8E >らとの親交があり、日本人の自然を愛する美意識を高く評価した。5度にわたって訪日している。
 タゴールは、1924年の3度目の来日の際に、第一次世界大戦下の対華21か条要求などの行動を「西欧文明に毒された行動」であると批判し、満洲事変以後の日本の軍事行動を「日本の伝統美の感覚を自ら壊すもの」であるとしている。
 タゴールは中国について、「中国は、自分自身というものをしっかり保持しています。どんな一時的な敗北も、中国の完全に目覚めた精神を決して押しつぶすことはできません」と述べた。タゴールのこうした日本批判に対して・・・野口米次郎とは論争になった。野口は日本は中国を侵略しているのではなく、イギリスの走狗と戦っているのだとした。
 1929年を最後に、タゴールは来日することはなかった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB

 1838年に北西ペルシャの村で生まれ、1897年にイスタンブールで亡くなった・・・アフガーニー<は>・・・シーア派だったが、アフガニスタン出身のスンニ派であると自称し続けたところ、彼のペルシャ、アフガニスタン、英領インド、オスマントルコ、エジプト、そしてロシアにまたがる彷徨は、彼に、イスラム教の反欧米的な政治力の可能性を激しく認識させるに至った。
 英国の行政府の官僚達が、英領インド、エジプト、及びスーダンに対する汎イスラム的脅威に眠れない夜を過ごした時、その少なからざる部分はアフガーニーと彼が鼓吹した人々のせいだった。
 <アフガーニーの>爾後の追従者達としては、第一次世界大戦前のエジプトのナショナリスト達、そして、オスマントルコ王朝の崩壊後におけるイスラム教徒の政治的統合の形成・・それは失敗が運命付けられていた・・を目指したところの、戦間期のアラブ世界とインドの主要人物達、があげられる。
 パリのセーヌ川の南岸の地区(Left Bank)のカフェでシャーの打倒を企んで時間を過ごした戦後イラン人エミグレも、アフガーニーのことを忘れはしなかった。・・・
 アフガーニーより一世代遅れて1873年に生まれた、支那の改革家の梁啓超は決していやいやではなく、一種の<東西>並行生活を推奨した。
 アフガーニーのように、梁は新聞の力を理解し驚くべき効果でもって筆を振るったし、民族を救うために国につっかい棒をするためには政治改革をすることが不可欠だと若き毛沢東(等)に教えた。
 そして、アフガーニーのように、梁は、欧米が自分のことを知っているよりはるかによく欧米のことを知っていた。
 彼は米国中を広く旅行し、金ぴかの時代のひどい富の不平等と人種主義を経験したことが、彼の支那についてのビジョンに影響を与えた。・・・」(B。ただし、[]内はEによる。)

 「・・・以上は、三つのバラバラの話のように聞こえたかもしれないが、彼らがそれぞれ生きた世界には、相互に複数のリンクが存在していた。
 アフガーニーのキャリアはペルシャからインドへ、エジプトからイスタンブールへと及んだ。
 <また、>タゴールは、支那で講演旅行を行った。
 現地で、彼は聴衆に対し、自分達自身の精神的な(spiritual)諸伝統を利用する(draw on)よう促し、共産主義者達から(「帰れ、滅亡した(lost)国からやってきた奴隷よ。我々は哲学はいらない。我々は唯物論を欲する」と)やじられた。
 日本人でイスラム教に改宗した波多野春房(Hasan Hatano)<(注5)>・・モスクワでアフガーニーと友人になったロシア人のイスラム教徒と東京でイスラム新聞の共同編集者をやっていた・・著の『累卵のアジア(Asia in Danger)』という汎アジア主義のパンフレットさえあった。・・・

 (注5)HASAN U. HATANO=Hadano Harufusa。'THE ASIATIC UNION'、'WHY SHOULD NOT JAPAN HELP INDIA IN HER COMING WAR OF INDEPENDENCE'、『累卵ノ日本(A Conspiracy to Imperil Japan When will Japan be ready to act for her own sake as well as other Asiatic Countries?)』等の著作がある。
http://www.jacar.go.jp/siryo/ichiran/G_101/m4090.html
 「波多野春房(烏峰)は前妻を離縁して18歳の秋子<(1894〜1923年)>と結婚<したところ、>・・・秋子は春房の学費提供により女子学院英文科に入学、・・・青山学院英文科に入学。・・・卒業後、・・・『婦人公論』の編集者となり、美人記者として名高かった。妻に先立たれた有島武郎と劇場で席を前後したことをきっかけに次第に恋愛関係となり、これを知った春房が武郎を呼び出し金銭を要求。また訴訟を起こすとも告げたため、大正12年6月有島と二人で失踪、軽井沢の別荘で心中した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E7%A7%8B%E5%AD%90
 この情死のいきさつは下掲に詳しい。
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/arishima_t.html
 それにしても、秋子のウィキペディアがあって、波多野のウィキペディアがないとは!
 ・・・<しかし、>ミシュラがこの本の終わりあたりで悲しげに認めるように、アジアの諸戦略のうち最も効果的であった二つは、純粋に欧米のイデオロギーに直接的に範をとったものだった。
 すなわち、欧米型の「国民国家」の建設、または、欧米由来の共産主義の押し付けだったのだ。・・・」(E)

(続く)