太田述正コラム#5632(2012.7.31)
<中共と毛沢東思想(その4)>(2012.11.15公開)

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         --始皇帝や毛沢東は例外だったのか?--

 『源氏物語』の英訳者として名高いアーサー・ウェイリー(Arthur Waley)
http://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_Waley
が支那についての本も書いており、その本、'Three Ways of Thought in Ancient China' が昨年復刻され、その書評がアジアタイムスに掲載されていた
http://www.atimes.com/atimes/China/NG21Ad01.html
(7月21日アクセス)ところ、本シリーズとの関連もこれあり、この書評のさわりの部分を紹介し、私のコメントを付しておきたい。

 「・・・<支那には>莊子(Chuang Tzu<=Zhuangzi>)<に代表される道教>と孟子(Mencius)<に代表される儒教>と、<ウェイリーが>この本の中で呼んでいるところの現実主義(realists)<の三つの物の考え方があった、とウェイリーは主張している。>・・・

→「現実主義」とは、韓非子に代表される法家の思想を指していると考えられます。(太田)

 ウェイリーは、支那の王朝や支那の統治者が、実際に道教・・道教は非社会的な(asocial)教えだった・・の諸原則に則った統治はもちろんのこと、儒教・・以前には、帝国的統治の終焉に至るまで国家イデオロギーであり科挙の基盤だった・・の諸原則に則った統治すら行ったことはない、と記している。・・・
 ウェイリーは、儒教は機能しない、と述べている。
 儒教が、その道徳的土台(underpinning)でもって数千年にわたって支那の諸君主のイチジクの葉であり続けたという事実にもかかわらず、と。・・・
 道教主義者同様、「現実主義者」は、相対主義者、いや、より正確には、最初に一瞥をくれた限りにおいては非道徳主義者(immoralist)だった。
 彼らの見解の文脈の中では、国家が命じたことはすべて行われなければならず、例えば儒教の場合のような、永遠の道徳的指針を信じる者は絶滅されなければならなかった。
 国家は、彼らの見解では、自分自身以外の目的(goal)を持ってなどいなかったのだ。
 経済的活性は国家の生存のために必須であることから、人民の過半は農業<(経済活動)>に従事することが求められた。
 国家の他の主要な機能(function)は終わりなき拡大だった。
 だから、食糧生産に従事していない者は戦争に従事しなければならなかった。
 そして、現実主義者は、統治者に対して、どのように人民をしてこれらの活動に従事させるかの助言を与えた。・・・
 それでも、現実主義者の政綱をより詳しく見てみると、それは、通常理解されているような、マキャベリズムではない。
 現実主義者の政綱は、実際には公的利益への関心を暗に含んでいた。
 彼らによる農業活動の強調は、全ての古代国家、いや実際には全ての国家、の基本的必要事項であるところの、人民への食糧供給に関連していた。
 食糧供給が不安定的であった社会ではこのことは特に重要だった。
 国家の拡大というもう一つの強調点もまた、実際にはもう一つの古代国家の基本的必要事項であるところの、強い対外的及び対内的の双方に係る安全保障感覚に関連していた。
 この二つの属性は、国家にとってのみならず、人民の生存にとっても必須だった。・・・
 現実主義者は、統治者が領域の直接統治に従事してはならないと指摘した。
 なぜなら、彼は国家が裨益するであろう決定を行うことができないからだ。
 その理由は単純そのものだ。
 統治者は、気まぐれ、<他からの>影響、そして感情に左右される<生身の>人間だからだ。
 統治者の直接的影響下でつくられた法は、国家の諸活動が、統治者と国家に加えて、実際には<人民の>過半にとっても、最も裨益的であることを確保すべく、彼から独立していなければならない。
 しかし、もし<法の下での国家>の諸活動が<人民の>過半にとって裨益的であるのなら、なにゆえに社会は公式には何物によっても拘束されないところの、専制者(despot)によって統治されなければならないのか。
 ここで大事なのは、「現実主義者」が記したように、平均的人民、すなわち一般の大衆は自分達の長期的な共通の利益を理解することがほとんどできず、従って、とりわけ結果を早期に観察できないような場合は、自分達の個人的ないし集団的利益を社会的/国家的利益のために犠牲にすることが決してない、という点なのだ。・・・」

→ウェイリーの言っていることは、前提としての支那人民の愚民性(阿Q性)を始めとして、極めて示唆的ですが、彼の言を踏まえて、私見を述べれば、私は、始皇帝や毛沢東を含め、始皇帝以降の支那の全統治者は、あくまでもホンネのイデオロギーとして現実主義(法家の主義)を信奉していたに過ぎない、と考えます。
 すなわち、それはホンネとはいえ、イデオロギーには変わりがないのであって、ウェイリーの言っているような法治主義に徹した統治を行った統治者は一人もいなかった、と私は考えます。
 (反証が挙げられる方はぜひ挙げていただきたいものです。)

 他方、始皇帝と毛沢東が(始皇帝以降の)支那の統治者の中ではやはり例外に属する部分があります。
 それは、この二人が儒教を排斥した点です。
 毛沢東統治下の中共は、一貫して儒教を排斥し続けました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99
 毛沢東が、自らが発動した文化大革命の際に、批林批孔運動(注2)を展開したことは象徴的です。

 (注2)「1970年代前半、文化大革命のさなか中国で展開された、林彪と孔子を批判する運動のこと。孔子および孔子が説いた儒教、そして儒教を復活させようとする者とされた林彪が激しい批判の矢面に立たされた。批林批孔を通じて、当時の実力者であった周恩来を失脚させようとする目論みがあったとされる。」
http://www.weblio.jp/content/%E6%89%B9%E6%9E%97%E6%89%B9%E5%AD%94%E9%81%8B%E5%8B%95

 他方、始皇帝と毛沢東以外の支那の統治者は、いずれも、儒教をタテマエ上のイデオロギーとしたところです。

 (「毛沢東は三国志を愛読し、曹操をとりわけ好んだといわれるが、曹操は三国時代当時に官僚化していた儒者および儒教を痛烈に批判している」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99 前掲
というむきもあるが、これは毛沢東らが判官贔屓史観でつくられた『三国志演義』をうのみにしているからであり、実際の曹操は、「<彼>の元に多くの名士(主に儒教知識人)が集まり、やがて<彼らが>武将を抑えて曹操政権内で大きな権力を持った」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%93%8D
というのですから、決して反儒者、反儒教ではなかったと思われる。)

 そして、毛沢東後の中共においても、当局は、「近年、・・・「儒教社会義」または新儒教主義(宋の時代にもあった)を唱えている」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99 前掲
、というのが大方の見方であることは興味深いものがあります。
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(続く)