太田述正コラム#5630(2012.7.30)
<中共と毛沢東思想(その3)>(2012.11.14公開)

 毛沢東が始皇帝ファンであったことははっきりしています。
 秦を滅ぼした漢が始皇帝を貶め、始皇帝が嫌った儒教を尊重して以来、始皇帝は長く悪漢視されてきましたが、清滅亡後の混乱の中で、次第に支那内で始皇帝的人物待望論が高まって行き、蒋介石を始皇帝に擬するむきが現れたりします。
 しかし、1949年に中共が成立すると、マルクス主義史観に則り、秦は旧支配層(奴隷所有者階級?)と商業階級という特殊利益の代弁者であったところ、秦が倒れたのは広範な小作人階級が蜂起したからであり、漢の成立はこの小作人階級が地主階級と妥協した結果であるとし、中立的な始皇帝評価が打ち出されます。
 ところが、1972年に、始皇帝評価に劇的な変化が生じます。
 この1972年に、毛沢東は(反ソ的観点に立って)、北京でニクソン大統領と会談を行って米中和解を劇的に演出し、次いで田中首相とも会談を行い、一挙に日中国交回復をなしとげます。
 つまり、毛沢東は、この最晩年の時期に、それまで秘してきた自らのホンネに従った対外政策を展開したわけであり、同時期における新たな始皇帝評価も、毛沢東のガバナンス観に係るホンネの吐露であったと見てよいでしょう。
 この新しい始皇帝評価は、同皇帝による、支那における最初の統一中央集権国家の樹立と、反革命勢力の暴力的弾圧手法、とを高く評価するものでした。
 始皇帝に対する唯一の批判は、反革命勢力に対する弾圧が徹底していなかったことであり、そのために、封建制度が復活してしまった、というものでした。
 1974年に、この始皇帝への批判内容がより精緻化されます。
 (1976年9月9日に毛沢東は死亡しますが、その年の4月の時点でなお、(国家運営の実務を取り仕切っていた)小平を再失脚させており、死の直前まで、毛沢東が最高権力者であり続けたことは明らかです。)
 毛沢東自身による始皇帝評として、以下が残されているのは興味深いものがあります。
 「<始皇帝>は460人の学者を生き埋めにした。
 <しかし、>我々は46,000人の学者を生き埋めにした。
 君達[インテリ]は我々が始皇帝的であると罵る。
 <そんな>君達は間違っている。
 我々は始皇帝を100倍も凌駕しているのだ<から>。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Qin_Shi_Huang (の該当箇所を要約した。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1 (毛沢東関係の年月をこれに拠った。)

 私は、既に、もっと後で述べるべきことを先取りして述べてしまっているのですが、ついでにもう一つ、先取りして述べておきましょう。
 前出の「中国共産党は、諸実験・・これは改革の時代より前の時代においては極めて稀だったと・・・考え<られ>る・・だけでなく、地域の諸実践(practices)からも広範に学んだのだ」というくだりは、この本の執筆者に共通する見方のようですが、「改革の時代より前の時代」すなわち、毛沢東の時代には、地域の共産党による実験が「極めて稀だった」だけでなく、(地域の共産党ならぬ被治者達による)「地域の諸実践から・・・広範に学んだ」こともまた「極めて稀だった」のではないか、と私自身は考えています。
 (地域レベルの実践が後に地域の共産党だけでなく共産党中央によっても認知された具体的かつ重要な事例があるというのなら話は別ですが・・。)
 何となれば、以上ご紹介した毛沢東主義において、民衆のイニシアティブを奨励することはもとより、認める要素すら全く見出すことができないからです。
 (そもそも、始皇帝の主義にかかる要素を全く見出すことができないことは、あえて指摘するまでありますまい。)

 (2)資本主義化した中共が生き延びている理由

 「・・・毛沢東の<悪く言えば>「誤りだらけの特異な(erratic and idiosyncratic)」やり口は、彼の、法の支配の見かけの下での政策遂行の拒否、及び「法治主義(regularized" governance)」への嫌悪、と直接関係していた。
 にもかかわらず、この本はこの点を取り上げていない。・・・
 問題のよりむつかしい部分は、どうして支那のレーニン主義体制が、それが惹起したところの、法外な規模の腐敗と社会的不満にもかかわらず、これまで生き延びてこれたかだ。・・・
 これの説明としては、(北京政府の国防予算は既に世界2番目だが、)国防予算より大きな年間予算を与えられている「国内治安国家(internal security state)」の瞠目すべき勃興を勘案しなければならない。
 これにより、確実に、反体制派は恒常的に嫌がらせを受け、不満を抱いた村人達は監視され、潜在的なトラブルメーカー達は芽を摘まれてきた。
 より大事なのは、ソ連とその東欧における衛星国家群とは違って、中共は欧米によって遂行されたところの、全面的冷戦の対象ではないことだ。
 ソ連没落の米国における主要企画者達の幾ばくかは、中共による天安門での弾圧やそれ以降の抑圧の擁護者でもある。
 この不適切なる欧米による<中共>支持は、中共の国際経済秩序への漸次的加盟や中国共産党への国際的正統性の付与、更には中共における反体制派の士気の低下を招いた。
 ソ連の崩壊は、部分的には欧米による経済封鎖によるものだが、中共は<、逆に、欧米による>経済的関与の果実を享受し続けて来たのだ。」(A)

(続く)