太田述正コラム#5608(2012.7.19)
<戦前の衆議院(その9)>(2012.11.3公開)

<廣田首相>(同上)

 「・・・国体明徴と露西亜との国交断絶と云う御考えのようでありますが、是は能く世間で色々物を深く考える人の間には、そう云う意見があることも私承知致して居ります。併ながら苟も隣国として、其処に色々の問題が発生する国柄に対して、是と国交を断絶して面倒を惹起するよりも、国交を開いて各種の紛争を適宜処理して行くと云うことが、日本の外交上適当であると考えて居るのであります。外務省の方針と陸海軍の方針と果たして一致するか、矛盾するではないかと云うことでありますが、陸軍に於いて大陸進出、海軍に於いて海洋政策、斯う云う具体的の方針を持って居られるや否やということは私存じませぬ。併ながら何れにしても外務省の従来執って居りまする平和方針と、決して矛盾する政策を陸海軍では持って居られぬと云うことを私は確信致して居ります。立憲政治に付いて、私が昨日演説致しましたことに付いてご質問のようでありましたが、私は実は甚だ遺憾ながら何が故に今日日本に於いてまだ此の議会政治に付いて、国民の絶対信用がないのであるかと云うことを、甚だ不思議に考えて居るのであります。若し何等か国民に其の真意が徹底せず、或いは議会の運用に宜しきを得ざるようなものがありと致しまするならば、出来るだけ其の点を早く改めて、欽定憲法に基づく立派な議会政治を日本で行って参らなければならぬと思うのである。然るに・・・今回事件を起こしました者の中にも、憲法を三年間停止すると云うかの如きことを言って居る者がある。・・・」(一一七頁)

→ソ連との国交断絶はすべきでないとの答弁は必ずしも間違っていませんが、廣田には、ソ連が、国交断絶を考慮しなければならないほどの非違行為を直接的間接的に日本に対して行ってきたという認識が欠如しているように思われてならない点、また、外務省、陸軍、及び海軍の対外方針の齟齬については、このように答弁するほかないものの、廣田の口調から、彼が外務省の立場に立っていて、当然外務省の対外方針の下にそれらが統一されるべきであると思っているのが透けて見える点、は嘆かわしい限りです。
 ただし、「議会の運用に宜しきを得ざる・・・ものがあ<る>」と廣田が述べた点は、当時の外務、陸軍、海軍を含む、非軍事・軍事官僚共通の認識の代弁であり、適切であったと思います。(太田)

<有田外相>(同上)

 「・・・冀察政府<(コラム#4008、4010、4616、4618、5569)>並びに冀東政府<(コラム#4008、4010、4683、5044、5323、5569)>と云うものは、北支那に於きまする特殊の事情に基づいて生じました自治的の政権であるのであります。日本は北支那に対しましては、満州国との接壌関係、特殊の関係がありまするので、此の地方に関することは特に重視致して居るのであります。此の地方が排日抗満の根拠地となるとか、或いは赤化勢力が侵入するとか、或いは此の地方の秩序が紊乱するとか云うことは、極力之を避けしめたいと云う考えを以て、常に重視致して居る次第であります。・・・」(一一八〜一一九頁)

→あの腰の定まらないこと夥しい外務省、を代表する立場でもある外相が、「赤化勢力<の>侵入」を「極力・・・避けしめたい」と発言したことに注目しましょう。(太田)

<岩崎幸治郎(注13)議員>(5.8)

 (注13)岩崎について、ざっと調べたところ、断片的な情報しか得られなかった。
 加藤高明内閣が1924年に、政務次官制度と併せて参与官制度を新設したところ、司法参与官に任ぜられる。
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%AB%98%E6%98%8E%E5%86%85%E9%96%A3_%E5%8F%82%E4%B8%8E%E5%AE%98
 (この内閣以降、陸軍省、海軍省を含め、衆議院議員・貴族院議員の中から政治任用によって政務次官1名と参与官1名が任命されるようになった・・林・第2次近衛・第3次近衛・東條の4内閣を除く・・ことを銘記していただきたい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E4%B8%8E%E5%AE%98 )
 第18回衆議院議員選挙(1932年2月20日)において、大阪5区で当選。(立憲政友会)
http://go2senkyo.com/precinct/2011092531495.html

 「・・・<二・二六事件の原因だが、>私の知る所に依りますと、大正年代の末より昭和の初めに当たって、陸軍の将校を養成いたしまする学府に於きましては、相当矯激なる教育を致されて居ると云うことも知って居るのであります。而して此の矯激なる、所謂陸相の言われる所の外部の矯激なる思想を有する者もあるのでございまする。随って単見的に唯憲法の運用宜しきを得ないがために、此の矯激なる思想を醸成するに至った、発生するに至ったと断定せられる総理大臣の説明は、私と致しましては洵に受け容れ難いのでございまする。之に加えて此の未曾有の変事を原因を、憲法運用に重大の責任ある所の帝国議会のみに帰せられたる感ある如き首相の説明は、実に私の理解に苦しむ所である。・・・
 私は只今首相の単見と云うことを申しました。此の単見と云う言葉は敢て首相のみならず、大蔵大臣に対しましても亦申し上げたいのでございます。・・・経済、財政に付いての革新を為すに付きましては、財界に変動を生ずると云うことは、是は当然の出来事である。何等憂うるに足らないのであります。・・・大蔵大臣がお考えになって居る如く、左様な感傷的な者のみを以て満ちて居るものではございませぬ。・・・要する所は唯有力なる指導者がないと云うことに、今の国民は苦しんで居るのである。・・・」(一二一〜一二二頁)

→二・二六事件の責任は一義的に陸軍にあるのであって議会にはない、と行政府に対して、岩崎が立法府を代表して、責任回避の論陣を張ったわけです。
 しかし、岩崎が行政府のガバナンス強化を求めたのは正論です。
 ところが、五・一五事件の結果、(議会人側の意識が旧態依然であったために、)形つくって魂いれずの状態ながら、挙国一致内閣こそ既に生まれていたけれど、廣田首相は、更なる行政府のガバナンス強化に資するところの、(英国が1923年に設けた参謀長会議、に類似したところの)(戦時以外での)大本営の設置の意向は抱きつつもその実現に乗り出さず(注14)(次の次の内閣である第1次近衛内閣の時の1937年11月に実現)、(英国が1927年に設けた国防大学に相当する)内閣総力戦研究所的なものの設置(1940年になってようやく実現)にも、(英国が1936年に設けた)国防調整相(1940年に国防相)の設置(ついに実現せず)にも、関心を示しませんでした。(コラム#4193、4515、4604参照。)

 (注14)廣田首相は「大本営を設置する案を持っていた。しかしこれは正式に提案されることはなかった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85

 しかも、やむを得ない事情があったとはいえ、明らかに行政府のガバナンス低下につながったところの軍部大臣現役武官制を復活させています。(前出)
 廣田首相は職責を十分に果たさなかった、と言われても致し方ないでしょう。(太田)
 
(続く)