太田述正コラム#5602(2012.7.16)
<戦前の衆議院(その6)>(2012.10.31公開)

<堀切善兵衛(注8)議員>(5.7)

 (注8)1882〜1946年。慶大理財科卒、ハーバード大学、オックスフォード大、更「にドイツに留学し帰国後母校の教授となる。」1912年に政友会公認で立候補し衆議院議員に。1918年から1924年まで高橋是清蔵相秘書官。1929年から30年にかけて、一カ月弱、衆院議長。1931年、犬養内閣で大蔵政務次官。1940年、「かつては堀切と同じく政友会代議士だった松岡洋右により駐イタリア大使に起用される。1942年」、「駐伊大使を辞任して欧州各国を視察。1944年」、「帰国。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%88%87%E5%96%84%E5%85%B5%E8%A1%9B

 「・・・歳出の中の今一番大事なものは何かと云うと、軍事予算であります。・・・
 経済の発展と国防の充実とは、両方一遍にやらなければいかぬ、併行せしめて行かなければならぬと、斯様に申すのであります。昔は能く富国強兵<(注9)>と云うことを言った。国を富まし兵を強うすると云う。今日はもう一歩進んで居ります。どう云うことか。国を富ましてから兵を強うすると云うのでは、最早是は間に合わない。国を富ましながら兵を強うすると云うのが吾々の目的である。兵を強くしながら国を富ますのであります。・・・」(六六、七二頁)

 (注9)「江戸時代中期に太宰春台がその著作『経済録』で富国強兵を「覇者の説」と批判する儒学者を批判して、国家を維持・発展させていくためには富国強兵は欠かせないことを説いた。・・・攘夷論の理論的支柱となった水戸藩の水戸学においては、既に19世紀初期の藤田幽谷によって富国強兵によって外国と対抗する必要が唱えられていた。公家の岩倉具視も1867年に著した『済時策』で富国強兵を皇威宣揚のために必要な政策として説いている。開国派の間ででも1856年に出された海防掛岩瀬忠震の意見書において、海外貿易を振興して富国強兵を推進する必要が説かれ、老中阿部正弘も岩瀬の考えを採用する方針を立てた。また、1860年に横井小楠が著した『国是三論』も「富国論」「強兵論」「士道」の三論から構成されている。・・・明治政府は・・・西洋文明の積極的導入(「文明開化」)を推進し、地租改正や殖産興業で経済力をつけ(=富国)、徴兵制や軍制改革により軍備を増強(=強兵)することで国家の自立維持を図った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%9B%BD%E5%BC%B7%E5%85%B5

→「<19>34年度から・・・軍事費を横ばいにしていた高橋<是清>は、そのこともあり、<19>36年の二・二六事件で殺されてしまう」(『防衛庁再生宣言』177頁)という時代背景や、堀切がかつて長く高橋是清蔵相の秘書官を務めたことを踏まえて、彼の「今一番大事なものは・・・軍事予算であります」という発言を理解すべきでしょう。(日支戦争直前において軍事予算が2年間抑制されたことは、結果論ですが、極めて残念なことでした。)
 それにしても、堀切は、随分海外で学んだけれど、肝心の日本のことは余り詳しくなかったようですね。
 富国は強兵の手段・・福沢諭吉は『文明論の概略』の中でそのような趣旨の論を展開した(上掲書174頁)・・というイメージを明治期以降の日本人は抱いていたかもしれませんが、仮にそうだとしても、それは、まず富国を実現してその後に強兵を、ということではなかったからです。(注9参照。)(太田)

<齋藤隆夫(注10)議員>(同上)

 (注10)1870〜1949年。「東京専門学校(現・早稲田大学)行政科に入学、・・・首席で卒業。・・・1895年・・・弁護士試験(現司法試験)に合格・・・。その後、アメリカのイェール大学法科大学院に留学・・・。
 帰国後の1912年・・・に立憲国民党より総選挙に出馬、初当選を果たす。以後、1949年・・・まで衆議院議員当選13回。生涯を通じて落選は1回であった。第二次世界大戦前は<一貫して>・・・非政友会系政党に属した。普通選挙法導入前には衆議院本会議で「普通選挙賛成演説」を行った。この間、・・・内務政務次官、・・・内閣法制局長官を歴任している。
 ・・・浜田国松や人民戦線事件で検挙される加藤勘十とともに反ファシズムの書籍を出したり卓越した弁舌・演説力を武器にたびたび帝国議会で演説を行って満州事変後の軍部の政治介入、軍部におもねる政治家を徹底批判・・・した。
 1935年・・・1月22日、「岡田内閣の施政方針演説に対する質問演説」で「陸軍パンフレット」と軍事費偏重を批判。
 1936年・・・5月7日・・・、「粛軍演説」(「粛軍に関する質問演説」)を行った。
 国家総動員法制定前の1938年・・・2月24日・・・、「国家総動員法案に関する質問演説」を行った。
 1940年・・・2月2日・・・、「反軍演説」(「支那事変処理中心とした質問演説」)を行った。
 3月7日に議員の圧倒的多数の投票により衆議院議員を除名されてしまった。しかし1942年・・・総選挙では・・・翼賛選挙で非推薦ながら・・・再当選を果たし・・・<た>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%9A%86%E5%A4%AB

 「・・・現役軍人でありながら、政治を論じ、政治運動に加わる者が出て来たことは、争うことの出来ない事実である。此の傾向に対して是まで軍部当局はどう云う態度を執って居られるのであるか。之を私は聴かんと欲するののであります。申す迄もなく軍人の政治運動は上御一人の聖旨に反し、国憲、国法の厳禁する所であります。彼の有名なる明治15年1月4日 明治大帝が軍人に賜りました所の御勅諭を拝しましても、軍人たる者は世論に惑わず、政治に拘らず只々一途に己が本分たる忠節を守れと仰出だされて居る。・・・
 立憲政治家たる者は、国民を背景として、正々堂々と民衆の前に立って、国家の為に公明正大なる所の政治上の争いを為すべきである。裏面に策動して不穏の陰謀を企てるが如きは、立憲政治家として許すべからざることである。況や政治圏外にある所の軍部の一角と通謀して自己の野心を遂げんとするに至っては、是は政治家の恥辱であり、堕落であり、又実に卑怯千万の振る舞いであるのである。此の点に付きましては軍部当局者に於きましても相当に注意をせらるる必要があるのではないかと思われる。・・・
 満州事変以来、国の内外に非常な変化が起こりまして、世は非常時であると唱えられて居るのであります。此の非常時を乗り切るものは如何なる力であるか。場合に依っては軍隊の力に依頼せねばならぬ。併しながら軍隊のみの力ではない。・・・近頃の世相を見ますると云うと、何となく或る威力に依って国民の自由が弾圧せられるが如き傾向を見るのは、国家の将来に取って洵に憂うべきことでありますからして、敢て此の一言を残して置くのであります。重ねて申しまするが、吾々が軍を論じ軍政を論ずるのは即ち国政を論ずるのであります。決して是が為に軍に対して反感を懐くのではない。軍民離間を策する者でもなければ、反軍思想を鼓吹する者でもありませぬ・・・。・・・」(八九、九六〜九七頁)

→これが、齋藤の1936年5月7日の「粛軍演説」です。
 一見当たり前のことを言っているようですが、「世は非常時であると唱えられて居る」という口吻からすれば、1936年の時点で齋藤自身は日本が有事だとは思っていないわけであり、そんな極楽とんぼのような議員が「粛軍演説」をすれば、それが「軍に対<する>反感」に基づき、「軍民離間を策」し、「反軍思想を鼓吹」するものと受け止められるのは当然であり、それが1940年2月2日の「反軍演説」後に彼が議員除名される伏線になるわけです。
 もとより、議員除名は行き過ぎであり、日本の有権者は、軍部を支持していたにもかかわらず、「反軍演説」を行った齋藤を再度国会に送り出す、という味なことをやってのけます。
 戦前の日本の自由民主主義の成熟度は相当なものであった、と改めて思いませんか。(太田)

(続く)