太田述正コラム#5594(2012.7.12)
<戦前の衆議院(その2)>(2012.10.27公開)

<有田外相>(同上)

 「・・・帝国政府は東亜の平和維持の為め、日満両国と「ソヴィエト」連邦との関係が正常且つ平穏ならんことを冀うものでありまして、帝国政府が満州国政府と共に何等侵略的意図を持って居ないことは、今更申す迄もないのでありまするが、近時、満州国と「ソ」連邦との国境方面に事件続出し、又満州と外蒙古との間にも同様事件の頻発を見ますることは、遺憾に堪えないのであります。殊に境界不明確なるに拘らず、国境を越えたりとの一方的判断に基づきまして、直ちに武器を使用するが如きことは、徒に国交を先鋭化する以外、何等の実益もないことでありまして、斯の如きやり方に付きましては、既に「ソ」連邦政府当局の注意を喚起致して置いた所でありまするが、此の機会に於いて更に猛省を促したいと存ずるのであります。・・・

→当然のことながら、外交演説でも、二国間関係において、一番最初に言及されるたのは日ソ関係です。
 対ソ抑止政策をとっていた日本に対してソ連は挑発を繰り返していたというわけです。
 1938年(7〜8月)の張鼓峰事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E9%BC%93%E5%B3%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6
や1939年(5〜9月)のノモンハン事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
の前兆を感じさせる箇所ですね。
 なお、当時のモンゴル(外蒙古)はソ連の保護国であり、満州国と日本との関係とほぼ同じと見てよいでしょう。1931年の満州事変は、ソ連による1921年の外蒙古の占領、保護国化
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B0%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%94%BF%E6%A8%A9
に、遅ればせながら対抗する措置でもあった、と私は受け止めています。(太田)

 「ソ」連邦為政者の東亜に於ける帝国の地位に対する認識の不足及び疑心暗鬼・・・「ソ」連邦が辺境の極東地方に過大の軍備を施して居りまする事実は、実に東亜に於ける平和を脅威するものでありまして、帝国政府は東亜の平和を衷心希望する見地より致しまして、右事実に対し無関心たり得ないと云うことを、此の機会に明瞭に致して置きたいと思うのであります。

→この表現も、戦後の首相や防衛庁長官の国会答弁で踏襲されました。
 戦後における1989年の冷戦の終焉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%B4%A9%E5%A3%8A
・・たまたま昭和も同年に終焉した・・に至るまで、昭和期(1926〜1989年)を通じて、日本の最大の潜在的敵国は一貫してソ連であり続けたのです。(太田)

 満州国に付きましては同国との不可分関係を基調として、日満支間に正常関係を樹立せんとする不動の外交方針に従いまして、満州国の経済開発等に出来得る限りの援助を与うると共に、同国に於ける帝国の治外法権撤廃及び満州鉄道附属地行政権の調整乃至移譲に関しましても、是が漸進的実現を期すべく、目下其の準備中であります。

→繰り返しますが、満州国が二番手に登場するのは、それが対ソ抑止政策の策源地だからです。(太田)

 次に日支関係に付きましては、曩に第六十八回帝國議会に於いて広田外務大臣より詳細説明せられましたが、対支三原則<(注2)>を基礎として、日支間に話し合いを進むることになって居るのであります。唯此の基礎の下に話し合いを進めて行きますが為には、支那当局者が真に東亜の対局を洞察し、一大決心を以て之に当たるを要する次第でありまするが、此の点に付きましては、不幸にして支那側の決心、未だ十分ならざるものあるやに見えまするのは、甚だ遺憾であります。さりながら日支国交の調整が、両国のは固より、東亜の平和のために極めて必要でありますることは言うを俟たないのでありますから、私は支那側の決意を促すと共に、有ゆる方面に於いて、日支国交を調整することに遺憾なきを期したいと思って居ります。東亜に於ける赤化勢力の侵入に付きましては、帝国政府は当に細心の注意を払いつつあるのであります。曩に四川省方面より陜西省に移動致しました共産軍主力の一部は、最近山西省に侵入し、同方面に於いて頻りに活動を続け居るやに伝えられまするのみならず、今後の情勢如何に依っては、更に北上せんとする姿勢を執って居るようにも見受けられますることに付き、帝国政府は深甚なる注意を払って居るのであります。

 (注2)いわゆる広田三原則のこと。
 この際、当時に至る広田の外交上の足跡を振り返っておこう。
 広田は、「1923年・・・、第2次山本内閣発足にともない欧州局長となる。加藤高明内閣では国際協調を重んじる「幣原外交」のもとで欧州局長として対ソ関係の改善に取り組み、1925年・・・の日ソ基本条約締結により国交回復にこぎつける。・・・
 1927年・・・、オランダ公使を拝命。1930年・・・から1932年・・・にかけて、駐ソ・・・大使を務めた。着任後、満州事変が勃発。政府は軍を直ちに撤兵させる旨を各国政府に通告するよう駐在大使・公使に訓令を出したが広田は慎重な態度をとり、ソ連に通告を出さなかった。関東軍は撤兵することなく永久占領の形でチチハルに居座り、駐在大使・公使が各国政府の信頼を失う中、モスクワだけが例外となった。
 1933年・・・9月14日、斎藤内閣の外務大臣に就任。・・・5回にわたり開かれた五相会議では、対ソ強硬意見を唱える荒木貞夫陸相と大角岑生海相を相手によく渡り合い、陸軍の提出した「皇国国策基本要綱」を骨抜きにした。次の岡田内閣でも外相を留任。当時ソ連との間で懸案となっていた、東支鉄道買収交渉を妥結、条約化し、鉄道をめぐる紛争の種を取り除いた。また、ソ連との間で国境画定と紛争処理の2つの小委員会をもつ委員会を設けることを取り決め、のちに自身の内閣で国境紛争処理委員会として設置される。
 <1934年4月の天羽声明については、コラム#4378、4380、4618、4695、4719、5042参照。>
 <1934>年7月3日、斎藤内閣は総辞職したが、・・・<広田は、>岡田内閣でも続けて外相となった。
 1935年・・・1月22日、帝国議会において広田は日本の外交姿勢を「協和外交」と規定し万邦協和を目指し、「私の在任中に戦争は断じてないと云うことを確信致して居ります」と発言した。この発言は蒋介石や汪兆銘からも評価された。その後、中国に対する外交姿勢は高圧的なものから融和的なものに改められ、治外法権の撤廃なども議論されるようになった。さらに在華日本代表部を公使から大使に昇格させた。諸外国もこの動きに追随したため、中華民国政府は広田外交を徳とし大いに評価した。しかし、軍部は満州国の承認がない状態での対華融和に反対であり、特にこの動きは軍部への根回しがほとんど行われなかった。また軍部は衝突が起こるたびに独自に中国側と交渉し、梅津・何応欽協定や土肥原・秦徳純協定を結ばせた。中華民国側は外務省に仲介を求めたが、「本件は主として停戦協定に関聯せる軍関係事項なるを以て、外交交渉として取り扱うに便ならず」として拒絶した。
 中華民国政府内の親日派は日本との提携関係を具体化すべく、1935年5月から広田と協議を始めた。中華民国側は「日中関係の平和的解決、対等の交際、排日の取締」の3条件を提示し、さらに満州国の承認取り消しを求めないという条件を伝えた。しかし広田はこれに納得せず、新たな「広田三原則」を提示した。
 支那(中華民国)側をして排日言動の徹底的取締りを行いかつ欧米依存より脱却すると共に対日親善政策を採用し、諸政策を現実に実行し、さらに具体的問題につき帝国と提携せしむること。
 支那側をして満州国に対し、窮極において正式承認を与えしむること必要なるも差当り満州国の独立を事実上黙認し、反満政策を罷めしむるのみならず少なくともその接満地域たる北支方面においては満州国と間に経済的および文化的の融通提携を行わしむること。
 外蒙等より来る赤化勢力の脅威が日満支三国の脅威たるに鑑み、支那側をして外蒙接壌方面において右脅威排除のためわが方の希望する諸般の施設に協力せしむること。
 この三原則は外務・陸・海の3大臣の了解事項となり、岡田首相、高橋蔵相もこれを了承した。これは対中外交の大枠を決定することにより、実質的に軍部を牽制するものであった。しかし中華民国側には失望を以て受け止められた。
 また、軍の国防問題講演会や国体明徴講演会に対抗するため、吉田茂ら待命の大公使に国内各地で外交問題講演会を開かせた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85
 広田は、駐ソ大使までやったにもかかわらず、(支那勤務が官補時代の北京勤務だけであったこともあって支那事情に疎かったのでないかと想像されるところ、)帝国陸軍に対する反発心があって、帝国陸軍(≒世論)の共産主義脅威認識並びに対ソ抑止の考え方に心底からの同調ができなかったように思われる。
 帝国陸軍に対する反発心は、陸軍の下剋上で行われた満州事変の時の彼の姿勢と、外務省の下剋上で行われた天羽声明の時の彼の姿勢に見られる一貫性のなさからも窺うことができる。
 彼のかかる反発心のよってきたるゆえんだが、外交一元化を追求したからだと言ってやりたいところ、やはり、幣原や吉田らと同様、外務省益墨守のためだろう。

→対ソ抑止政策の後背地たる支那の惨状が率直に述べられていますが、この外交演説案調整の過程で、帝国陸軍の強い申し入れがあったのではないか、と推察されます。(太田)

 英国に於きましては、去る一月二十日、皇帝「ジョージ」第五世陛下が崩御遊ばされました。故陛下はご承知の通り、二十五年余の久しきに亙って英帝国に君臨せられ、其の間世界大戦を初め、内外に於ける至難複雑なる時局に当たられ、遍く智徳を賞えられた御名君であらせられました。新帝「エドワード」第八世陛下に於かせられましては、・・・」英国とは世界各方面に亙り調整を要すべき利害関係が少なくないのでありますが、日英親善の伝統と、世界平和に対する両国の責任とに稽えまして、各自の有する特殊の必要に対し、十分の考量を加えまするに於いては、其の利害の調整は決して難事ではないと信ずるのであります。

→その後の展開を考えると、いかにも甘ちゃんの認識だったということになりますが、帝国陸軍を含めた当時の日本政府の英国理解力からすれば、責めても仕方ありますまい。(太田)

 日米両国の親交が太平洋平和の関鍵であることは申す迄もありませぬが、両国は経済上相互依存の関係に在るのみならず、両国民間の理解も次第に深まりつつあることは、誠に欣ばしき次第であります。両国は今後愈々相互の立場及び使命を尊重し、太平洋の平和確保に益々協力せねばならないと存じます。私は両国の諒解親善に付き此の上とも最善の努力を致さんとするものであります。

→日米関係が、一番最後に出てきて、しかも、全文を引用してもこれだけしか言及されていない点からも、当時の日本政府の米国理解力の程度が推し量れます。この体たらくについては、当時の外務省に全責任があります。(太田)

 次に国際貿易の現状を観察致しまするに、諸外国に於きまして、或いは諸種の口実を設けて外国生産品の排斥を企図し、或いは数国間に所謂経済「ブロック」を結成致しまして、経済的武装を固めんとするの趨勢愈々顕著となりつつあるのであります。斯かる趨勢を放置するに於いては、世界的経済不況は愈々深刻化し、究極に於いて世界貿易の委縮、延いては人類経済生活の退嬰を招来するに至りまするが故に、帝国政府に於きましては、機会ある毎に各国に対し此の種経済的武装の撤廃こそ、真に世界的経済不況を打開し、民族の共存共栄に資し、世界平和に寄与する所以なる旨を強調し来たのであります。・・・」(一一〜一三頁)

→この部分は、適切至極である、と言うべきでしょう。(太田)

(続く)