太田述正コラム#5574(2012.7.2)
<2012.6.30オフ会次第>(2012.10.17公開)

1 始めに

 表記のオフ会は、もともと申込み人数が少なかった上、体調を崩して欠席された人が出たこと、Skype参加をするはずだった人も仕事が入って参加できなくなったこと、そして、飛び入り出席者もなかったことから、私以外の出席者は8人にとどまりました。
 初参加者は1人(有料読者)でした。
 ただし、この全員が1次会、2次会、3次会すべてに出席されました。

2 オフ会次第

 「講演」草稿をなぞるのはつまらないので、ほとんど「講演」内容と無関係な事柄も含む、漫談的な話をしました。

 質疑応答の主たるもの(順不同)は以下のとおりです。(Oは私です。)

A:日本とイギリスは複数の文化(モード)からなる文明だというが、どうしてそれ以外の文明はすべて単一文化の文明なのか。
O:この両文明以外には、人間主義的なモードがなかったということだろう。
 人間主義的なモードが最初にあった・・日本の場合は縄文、イギリスの場合はバスクないしケルト・・からこそ、非人間主義的なモードの外来人が渡来してきた時、原住民が、どちらかと言えば、そんな外来人であっても歓迎したために、彼らと外来人との間で抜き差しならない対立、対決が生じなかったのだと私は考えている。
 つまり、日本やイギリス以外の所では、外来人側が原住民側を征服するか原住民側が外来人側を駆逐するか、という二者択一で、どっちにしても単一モードに戻る、ということだったのではないか、と言いたいのだ。

B:「「商人道のススメ」を読む」シリーズを読んで、自分が意識的には丸山真男らの考え方を否定しつつも、彼らの影響を脱し切れていないことを痛感した。そこで、<彼らの考え方をきちんと克服するために、>丸山真男の著作を読み返し始めている。
O:松尾匡は自身の研究もやっているはずだが、あの本では、ほぼ他人のふんどしだけで相撲をとっている。(この点は太田コラムも同じだが・・。)だから、松尾は学者ではなく評論家である、ということになる。
 それに比べると、丸山真男は、史料を発掘したり、既存史料を新しい角度で読み込んだりした上で新見解を述べる、というれっきとした学者だ。
 また、松尾はツッコミどころのデパートだ。<だから、ツッコムのも容易だが、丸山は手をあまり広げず、それなりに手堅いので、ツッコム場合、腰を落として取り組む必要がある、という違いもある。>
 
A:日本の現在の歴史学者の大勢は、日本の戦前史をどう見ているのか。
C:日本が米国や大英帝国の資源や市場へのアクセスを制限されたこともあり、満州や支那本体の資源や市場を確保しようとした、という史観だ。
O:その種の史観は、目的と手段を取り違えている。「帝国陸軍の目的はあくまでも対赤露安全保障であり、そのために策源地の確保と後背地の安定化を目指した。そして、その手段として資源や市場を確保する必要があった。ところが、国際政治経済情勢の変化により、この二つの対象地域が結果的に重なり合うことになった。」という風にとらえるべきだろう。
 なお、ホンネでは私のような史観を抱いている歴史学者だって少なからずいると想像されるが、「通説」から離れたものを書けば、戦後日本の体制側<・・外務省や通産省/経産省や文科省を始めとする官界、及び政界・・>からにらまれて干される、ということを意識的・無意識的に彼らが知っていて自主規制をしている、という面があるのではないか。

A:戸部論考では、<同論考が支那通を取り上げたものだからか、>満州事変に関しても石原莞爾への言及がないが、日本の戦前史における石原の役割は大きかったのではないか。
C:石原は、将来日米が必ず戦う、と見ていた。
O:だから、帝国陸軍は対赤露一本槍とは言えないのではないか、と思っている人がいるかもしれないが、それは違う。
 我々は、あくまでも、帝国陸軍の中央の幹部や関東軍等の出先の幹部・・後に幹部になった人物を含む・・が公式に、ないし準公式的に、言ったり書いたりしたものに基づいて、帝国陸軍の当時の安全保障観を読み取らなければならない。
 ところが、石原が、<日支戦争が始まった1937年に左遷され、>太平洋戦争が始まる前に予備役に編入された
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE
ことが示すように、石原の安全保障観は、あくまでも私的なものに過ぎなかった。
 そもそも、石原の安全保障観は、支那通達のような経験論の産物ではなく、彼が自分の頭の中でひねり出した合理論的な・・観念的なと言ってもよかろう・・代物だ。
 彼は、それまでの欧米の歴史から、自分にとって都合の良いところを切り取り、歴史は、基本的に強国同士の、戦争の質量両面にわたる逐次的深刻化を伴ったところの、抗争史あるとし、そこから、外挿的に、次の最終戦争が最強国たる米国と勃興する日本との間で戦われるだろう、と予想したわけだ。
 繰り返すが、この話が盛り込まれている彼の本である『最終戦争論』は、彼の個人的著作に過ぎない。
 その石原が、1931年の満州事変の際に、たまたま関東軍の作戦主任参謀をしていて、この事変で重要な役割を演じた(ウィキペディア上掲)ことは事実だが、関東軍は、支那通達の安全保障観、より端的には、当時、石原の直接の上司であった板垣征四郎関東軍参謀長(ウィキペディア上掲)の安全保障観・・対赤露安全保障・・に基づいて動いたのであって、石原の安全保障観に基づいてではない、と言ってよかろう。
A:しかし、太田さんは、『防衛庁再生宣言』の中で石原を高く評価していたのではなかったか。
O:<あれは、日本型政治経済体制が構築される契機として、満州国において同体制が先駆的に推進され、それに石原が大きく貢献したことを書いたわけだが、当時の満州国には、岸信介ら、同体制を推進した一般官僚達が何人もいた。
 だから、当時の満州において、安全保障面でも政治経済体制面でも石原の功績は大きいものがあったけれど、このどちらの面でも石原の功績はワンオブゼムに他ならない、ということが抑えるべき第一点であり、政治経済体制は安全保障等の政策を支える基盤であって、支那通の安全保障観と石原の安全保障観のどちらの基盤にもなりえたところ、満州事変は、あくまでも支那通の安全保障観に基づいて断行されたし、満州における日本型政治経済体制の前駆的推進も、あくまでも支那通の安全保障の基盤となることを企図して行われた、ということが抑えるべき第二点だ。>
 
3 終わりに

 次回は、9月29日(土)1400〜に私の新居でオフ会を開催します。
 オフ会は、次回以降も引き続きこの新居で開催することになるかもしれません。
 そこで、今回の分も含め、これまでのオフ会幹事団(東京グループ)の諸氏のご尽力に改めて感謝の意を表したいと思います。
 もとより、新居においても、引き続き、幹事団の諸氏にはお世話になるので、今後ともどうぞよろしく。

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<Q>

 <コラム>#5572<(永久非公開)>について、一言。
 <太田さんが>官界という世界から普通の世の中に出たということが如実に出ていますね。
 人を使えばそれなりの費用がかかる、ということです。
 その概念が全く抜け落ちています。

<太田>

 <商品A>と<商品B>の箇所についてであれば、それはQさんの完全な誤読ではないでしょうか。

 この部分は、<私の知人>が、「人を使えばそれなりの費用がかかる」という考え・・私も全く同じ考えです・・に立っていながら、<Aについて>はセルフで<設置す>るように私に助言したのに、<B>については、そうしなかったことをとらえ、彼が、(<知っていてしかるべき>なのに)<、Aという商品>についても<Bという商品>についても、基本的知識が欠けているのではないか、ということを言いたかったのがメインです。
 「それにしてもそれなり以上の費用をかけてくれたね」と<Bの設置をしてもらった>店に<ついて私が>ぼやいたのはサブに過ぎません。

 それとも、他の箇所についてのお話なのですか?
 だとしたら、もう少し具体的にお聞かせください。 

<Q>

 もう一回読みなおしてみましたら、おっしゃる通り、誤読ですね。
 しかし、人というものはこちらの期待通りには動いてくれないものですね。
 余計なことを言って手間をとらせてしまいました。・・・