太田述正コラム#5569(2012.6.30)
<私の歴史観・・様々な補助線について考える>(2012.10.15公開)

1 始めに

 これは、2012年5月26日の東京オフ会の際の「講演」用に準備したものです。

 表題について、総論的なお話をするよりも、XXXXさん提供の戸部良一「陸軍「支那通」と中国国民党--国民政府否認論の源流ーー」(『防衛大学校紀要 社会科学分冊 68号』 防衛大学校 1994年 収録)を俎上に載せ、私のいつも用いる補助線を引くと、この論考がより分かり易く読めるようになることをお示ししたいと思います。
 なお、戸部さんは、私が防衛大学校の総務部長をやった当時、お話をしたこともあり、日本の戦前史の専門家としての信頼性については折り紙つきである、と申し上げておきましょう。
 タイトルが羊頭狗肉じゃないか、と言われそうですが、真理は細部に宿るという格言がありますし、これを言っちゃあおしまいなのですが、私が転居という大事業の疲労からいまだ完全には回復していないということに免じて、一つ大目に見ていただければ幸いです。

2 戸部論考を補助線を引いてより分かり易くする

 「1938年1月16日、支那事変長期化を控えて、日本が「爾後国民政府ヲ対手トセス」と声明したとき、この政府声明を促した最も大きな要因が国民政府を否認すべしとの主張であったことはよく知られている。そうした国民政府否認論は特に陸軍において声高に唱えられた。現地で占領地政権づくりに狂奔していた北支那方面軍や中支那方面軍ばかりでなく、陸軍中央においても、国民政府を否認して新しい中国中央政権を擁立すべきであるとの主張が強硬に展開された。「対手トセス」とは本来、必ずしも国民政府否認を意味するものではなかったが、声明発表後陸軍を中心とする否認論の圧力により、結局は国民政府否認が声明の正統的解釈とされるに至り、日本政府もこの解釈に拘束されてしまうのである。」(33〜34)

→さすがにここは、補助線は必要なさそうですね。(太田)

 「陸軍「支那通」は、<北岡伸一によれば、>その経歴や世代により「旧支那通」と「新支那通」とに分けることができると言われる。「旧支那通」は軍閥の顧問を務めて密接な人的コネクションを築き上げ、軍閥を操縦することによって日本の勢力や権益の保持・増進をはかろうとした。これに対して「新支那通」は軍閥操縦方式に懐疑的であり、早くから軍閥よりも中国国民党の動向に大きな関心を示したとされる。」(35、64(<>内))

→「日本の勢力や権益の保持・増進をはかろうとした」のは、(帝国陸軍はもちろんのこと、日本政府としても、)対露・・当時は対赤露・・安全保障(補助線その1(1))上の理由による、という大前提に触れないのでは、訳が分からなくなってしまいます。
 この大前提を踏まえれば、旧支那通は対露安全保障の後背地たる支那を分裂したままにしておくことでその無害化を図ろうとしたのに対し、新支那通はこの支那を中国国民党政権を善導することによってまとめて無害化することを目指した、と解すべきことになるでしょうね。(太田)

 「新しい世代の「<新>支那通」は、国民党に対する共感の程度は別として、それが志向する民族自決・国家統一あるいは立憲政治の実現への動きに大きな関心を払い、おおむねこれを肯定的に理解していた・・・。
 ところが、・・・旧い世代に属する「<旧>支那通」軍人たちは、国民党が象徴する国家統一の気運に概して否定的であった。」(37)

→以下、徐々に明らかになって行きますが、結果的に、旧支那通が正しかったのです。(太田)

 「北伐の進行により、国民意識の覚醒を背景とした国民党の力が侮れぬことを主張してきた「新支那通」は、見通しの正しさを実証されたかに思われた。ところが、そのあたりから「新支那通」の国民党に対する見方は変化を示し始める。その契機となったのは、1927年3月に発生した南京事件である。<新支那通の一人である>磯谷<廉介は、>過激な排外主義や革命軍の暴行の原因を、「現国民政府ノ主脳者カ自己ヲ利スル為メニ労農露国ノ使嗾」を(39〜40)甘んじて受けたことに求めたのである。
 <また、同じく新支那通の一人である>佐々木到一<(注1)は、>かつて・・・国民革命の反帝国主義を国権回復の必然的な傾向と肯定的に捉え、その行き過ぎも革命成就に至る道程での一時的脱線であると弁護した。ところが、その彼も南京事件での衝撃により、国民革命の排外主義を激しく非難するに至る。そして佐々木は、そうした過激化の原因を、国民党がボローディンを指導者とする共産党に「征服」されたことを求めた。・・・

 (注1)1886〜1955年「。広島一中・・・を経て・・・陸軍士官学校(第18期)・・・三度目の受験で合格し<て>・・・陸軍大学校・・・」。中将。
 「1922年、広東駐在武官・・・。当時広東は中国国民党の本拠であったため、ここで国民党について研究し、その要人たちと交わり深い関係を持ち、後年国民党通と言われる素地をつくった。間もなく・・・孫文の軍事顧問となる。・・・孫文から蒋介石を紹介された。また人民服(中山服)のデザインも佐々木の考案に基づいたされる。
 1924年帰国し、参謀本部・・・班長と陸大教官を兼任。・・・国民党主体の第四革命の到来を予言する論文や著作を発表。しかし当時の陸軍内外では孫文の評価は非常に低かったため、佐々木は国民党にかぶれたと冷笑され「ササキイ、革命はまだかね」と揶揄されるなど批判を浴びた。・・・1924年、病床にあった孫文を見舞う。翌1925年、孫文は亡くなるが、佐々木は「国民党は一層破壊力を逞しくする」と予言。事態はやがてこの・・・方向に進んでいった。・・・1926年・・・北京駐在日本公使館附武官補佐官となる。前任者は板垣征四郎<(後出)>、後任が土肥原賢二<(後出)>で武官は本庄繁。・・・
 その頃、蒋介石が総司令になった国民革命軍が北伐を進攻し九江、漢口を攻略。翌1927年・・・に刊行した『南方革命勢力の実相と其批判』の中で佐々木は革命軍による中国統一の期待を記したが、旧世代の支那通たちは、これに悲観的な見通しを述べた。このため佐々木は新しい世代の支那通とも呼ばれた。<同>年・・・、南京事件の直後に南京に進出した国民党のつながりを期待され南京駐在参本附仰付となった。・・・
 1928年1月、蒋介石が国民革命軍総司令に復職。佐々木は総司令部に従軍を申し入れ許可され4月、北伐が再開され北伐軍と共に従軍した。総司令部は日本側との衝突が起こりそうになった場合の連絡役を佐々木に期待した。前年とこの年と二度に渡る日本軍の山東出兵で、中国側の敵愾心が高まっており同年5月、日本軍と国民革命軍が武力衝突(済南事件)。佐々木は両軍の使者となって停戦の折衝にあたるが途中、中国兵に捕らえられ暴兵と暴民にリンチされる。蒋介石の使いに何とか救出され<たが>・・・状況報告のため帰国。佐々木の発言が革命軍の肩を持つような記事に捏造され新聞記事で出たり、暴行を受けながら、おめおめ生きて帰ってきたと卑怯者、売国奴あつかいをされた。・・・<その後、>南京に戻る。しかしこれ以降、中国側が佐々木との接触を断った。蒋介石は済南で佐々木を見舞った時、日本軍の行動に強い不信の念を表明し、日本軍との提携の望みはなくなったと語ったという。佐々木は済南事件の処理を巡って中国側が「非行」の責任を回避しようとするならば、日本として武力に訴えて膺懲する以外にない、と強硬論を具申したが交渉から排除された。こうして日本では革命軍のまわし者であるかのように中傷され、中国では・・・日本陸軍のまわし者として無視され冷遇された。・・・中国は必ずしも自身の期待に答えてはくれず。その失望から、中国への強硬論を唱えるに至った。・・・
 1932年・・・12月、関東軍司令部附満州国軍政部顧問に命じられ・・・満州国軍創設に関わる。最高顧問は多田駿であったが、後板垣征四郎に交代し1934年12月、板垣の後任で佐々木は満州国軍政部最高顧問に就任した。・・・1937年8月満州を離れる・・・。・・・
 日中戦争では1937年12月、第16師団の歩兵第30旅団長として南京攻略戦に参加。・・・終戦後、満州でソ連軍に捕えられ長きに渡りシベリア抑留となる。その後中国に引き渡され、帰国も間もないと思われた1955年、撫順収容所で脳内出血のため没。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%88%B0%E4%B8%80

 こうした共産党が指導する暴力的な排外行動に対して、佐々木は実力をもって対抗することを当然とする。」(39〜40)

→1927年の南京事件を契機として、新支那通の間で、中国国民党に赤露のフロントである側面がある(補助線その2(1))、という認識が確立した、ということです。(太田)

 「ところで、北伐が華中に達したとき、陸軍の大勢は事態の急激な進展に驚きながら、革命勢力の中の穏健派と目された蒋介石との提携を模索し始める。・・・
 これに対して「新支那通」にとっては、過激な排外主義の抑制が歓迎されるべきものであったとしても、国民党が軍閥と同質の政治勢力となることは「革命の堕落」として批判の対象となった。そして「新支那通」の目から見れば、その後の国民党は一方で排外主義を抑制するどころか排日にそれを一本化し、他方では「革命の堕落」に陥るばかりとしか見えなかったのである。」(41〜42)

→次いで、新支那通の間で、中国国民党が腐敗したファシスト政党(補助線その2(2))であって、同党が仮に国民党の赤露のフロント色を払拭できたとしても対露安全保障上有害な存在であり続けるに違いない、という認識が確立した、ということです。(太田)

 「張作霖爆殺事件の首謀者河本大作<(注2)(コラム#4905)>・・・、満州事変の推進者板垣征四郎<(注3)(コラム#3776、4004、4548、4624、4759、4963、5003、5047、5064)>・・・、土肥原賢二<(注4)(コラム#4548、4616、4903、5188)>・・・などがいずれも・・・「<新>支那通」に属することを考えると、「新支那通」の中には満州問題の武力解決に積極的な軍人が多かったと見るべきであろう。・・・

 (注2)1883〜1955年。「大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、・・・陸軍士官学校・・・<更に、>に陸軍大学校・・・。」大佐。
 「関東軍参謀時、張作霖爆殺事件(1928年・・・6月)を起し、停職、待命、予備役編入。・・・なお、・・・張作霖爆殺事件は河本が首謀ではなく、<ソ連の>GRUが首謀したものという説も存在している。・・・1932年・・・に南満州鉄道の理事、1934年・・・には満州炭坑の理事長となった。・・・1942・・・国策会社山西産業株式会社の社長に就任・・・戦後、山西産業は中華民国政府に接収され、西北実業建設公司へと名称を変更したが、中華民国政府の指示により河本は同社の最高顧問に就任し、引き続き会社の運営にあたった。・・・その後河本は日僑倶楽部委員長に就任、太原の日本人とともに閻錫山の中国国民党の山西軍に協力して中国共産党軍と戦ったが、1949年・・・には中国共産党軍は太原を制圧、河本は捕虜となり、戦犯として太原収容所に収監された。1955年・・・、河本は収容所にて病死した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E4%BD%9C
 (注3)1885〜1948年。「仙台陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校・・・、陸軍大学校・・・。」大将。
 「1929年・・・に関東軍の高級参謀に就任。1931年・・・、石原莞爾らと謀り満州事変を実行した。1932年・・・満州国の執政顧問となる。次いで同国軍政部最高顧問・・・、関東軍参謀副長兼駐満大使館附武官・・・、関東軍参謀長・・を歴任する。・・・第一次近衛内閣で陸相に就任。宇垣一成外相による日華和平交渉に際しては、「蒋介石の下野」を講和の条件とする強硬論をぶち上げ、結果として交渉不成立の原因を招いた。平沼内閣でも陸相を務めた。しかし「桐工作」では「蒋介石の下野」でなく蒙疆・華北への防共駐屯を求めたり、日本側は汪精衛・蒋介石政府の合作を日本が仲介する事で蒋介石・汪精衛・板垣征四郎の会談を要求したが、実現しなかった。・・・その後は支那派遣軍総参謀長に転出し、1941年・・・に大将に昇進したと同時に朝鮮軍司令官となる。太平洋戦争・・・末期の1945年・・・4月、第7方面軍司令官に就任。終戦は、・・・シンガポールで迎え、・・・A級戦犯に指定され、・・・中国・シンガポールにおける罪を問われ、死刑判決を受け<執行され>た。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E5%BE%81%E5%9B%9B%E9%83%8E
 (注4)1883〜1948年。「仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、・・・陸軍士官学校、・・・陸軍大学校」大将。
 「陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長と出世。
昭和6年(1931年)夏、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦<(コラム#2330)>を使って清朝最期の皇帝溥儀を隠棲先の天津から脱出させる・・・その後、華北分離工作を推進し、土肥原・秦徳純協定を締結。この結果河北省に冀東防共自治政府を成立させた。土肥原は、謀略をも辞さない強硬な対中政策の推進者として昇進を重ね、「満州のローレンス」と畏怖された。特務機関畑を中心に要職を歴任し、陸軍士官学校長も務めた。・・・A級戦犯と<されたが>、・・・特に中国が強硬に極刑を主張し・・・死刑の判決が下され、・・・執行された。・・・「帝国陸軍きっての中国通」と呼ばれた。・・・奉天(現在の瀋陽)の臨時市長<の時、>運営経費を個人名義で借り入れた事もあった(後にこの借金の返済を巡って苦労することとなり、本人を含む家族は質素な家に住んだとされている)。そして、軍規に厳しく「中国民衆から徴発するな、部落を焼くな、女を犯すな」と言ったと<され>る。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E8%82%A5%E5%8E%9F%E8%B3%A2%E4%BA%8C

 中国人に近代国家建設の能力が欠けているという認識は、当時の「支那通」に共通したものであった。」(44〜45)

→「近代国家」とは、「自由民主主義的国家」のことである(補助線その1(2))、という認識を我々は持つべきでしょう。
 とにかく、対露安全保障の後背地たる(満州以外の)支那に何の期待もできない以上は、対露安全保障の策源地である満州それ自体を支那から完全に切り離して日本の事実上の支配下に置くほかない、また、そうすれば、支那と赤露の間の物理的遮断を実現する決定的契機にもなる、と新支那通が考えたのはごく自然な成り行きであったと言うべきでしょう。
 関東軍が、この考えを満州事変の形で実行に移し、それが日本の世論の喝采を浴び、陸軍省本省、ひいては日本政府の追認を得たことは、ご存じの通りです。(太田)

 「満州事変が一応の決着を見た1933年、陸軍は中国国民党についての小冊子を作成しているが、その中の以下のような観察は当時の陸軍の国民党観を集約したものと見なされよう。

 「国民党の北伐は従来の軍閥と妥協し之を抱擁して遂行され、…一度京津の地を占領するや国民党は目標を失ひ、党としての統制は弛緩し、所謂新軍閥の存在が表面化し、其嫉視反目と地盤争とは延いて内乱に継ぐに内乱を以てするに至つた。」
 「国民党は北伐完成後革命の志気著しく衰退し、…党は堕落し党員は腐敗し、官吏は売官兼職を事とし、財政は紊乱不統一にして、苛斂誅求は旧時の夫と異なる所なく、単に旧軍閥に代ふるに国民党を看板とする新軍閥を以てしたるに過ぎないのである。」
 「国民党の威令の如き僅かに江蘇、浙江、安徽及江西の一部に過ぎずして、国民政府成立以来未だ曽つて真の統一成らずと云ふも敢て過言にあらず、…政客、軍閥各勢力の拡張地盤の争奪に没頭し、合従連衡悉く利害打算に出発するが如き、支那国民性の然らしむるもの大なるを疑はない。」

 こうした観察はかつて<新支那通の>佐々木到一が「革命の堕落」と予想したところにほぼ等しい。さらにこの小冊子は、国民党の対外政策を次のように批判する。

 「排外、排日を高唱する所以は、軍閥政客が名を愛国運動に藉りて、自己の政治的立場を対内外的に重からしめ、或は立身の捷たらしめんとして人民に阿ね、或は国民の関心を外国に指向し以て国民党の秕政を隠蔽せんとの策略に外ならないのである。」

 かくしてこの小冊子は、「国民党にして依然其主義政策を改めざる限り、日支両国間の親交は木に縁りて魚を求むるの類と云はねばならぬ」と論じ、「若し国民党にして何等反省する所なく、其凶暴を続くるに於ては、…遂には支那をして国際管理に導くの危険を招来すべき虞が大であるから、平和を念とする支那国民は深く思を茲に致して、須く国民党を清掃すべきである」と結論づけたのである。」(46〜48)

→これは、陸軍省が、当時の中国国民党政権を腐敗したファシスト政権と断定した上で、支那の人々に対して自由民主主義的革命を促した文書である、と解すべきでしょう。(補助線その1+その2)(太田)

 「ただし、満州事変によって対立を深めた日中関係は、中国側の政策転換により好転の兆しを示し始めていた。「安内必先攘外」を掲げる蒋介石と「一面交渉一面抵抗」を唱える汪兆銘との合作の下で、中国は満州国を不問としたままで対日関係の安定化に乗り出し、1934年、満州国との通車・通郵・設関などの実務協定を関東軍との間で成立させる。これに応えて日本でも広田外相が日華親善を呼びかけ、中国側は排日運動を厳禁する措置を講じた。日中関係の好転がピークに達したのは、35年5月、日本が列国に先駆けて在華公使館を大使館に格上げした頃であった。
 ところが、陸軍はこうした日中関係の好転に冷ややかな目を向けていたのである。中国の方針転換は日本の態度緩和を狙っただけで対日好意から出たものではなく、「国民党の党是たる帝国主義打討(ママ)は彼等の常套手段たる以夷制夷政策を以て其の第一の目標を日本帝国に指向しあることは動かすべからざる」ところであり、「日本の国際情勢の非なる時機を待って猛然排日抗日牽いては失地恢復の爪牙を現し来ること明かなり」[(『偕行者社記事』掲載論考)]と見るのが一般的であった。
 このような陸軍の中国認識は当時参謀本部が作成していた『支那時局報』の内容からも窺うことができる。例えば、中国が対日提携の試みと並行してイギリスにも接近しつつあるとの報が伝わると、「支那ノ表裏二種外交欺騙外交」との批判を加え、さらに、「蒋、汪政権ノ日支提携ハ動機ニ於テ不純ナルモノアリ実現性ニ於テ信ヲ措キ難キモノアリ」と見なし、その真の動機は日本の圧迫を回避しつつ、対日提携のポーズを示して英米から経済援助を引き出すことにある、との観察がなされた。政府間での親善ムードが高まる一方、華北でいくつかの衝突事件が発生すると、「南京政府ノ対日転向ノ真ナラサルコト」が「証明」されたとし、次のような結論が導き出されたのである。

 「南京政府ノ対日誠意披瀝ノ標徴タル排日抗日取締ノ事実ハ啻ニ官憲ノ誠意アル取締並成果ヲ発見シ得サルノミナラス却テ官憲ノ使嗾並其ノ自ラノ実践ニ依リ依然トシテ往日ノ通リ排日抗日ノ事実続出ノ状態ニ在リ」

 陸軍は公使館の大使館への格上げにも反対であった。大使館昇格は日本の中国に対する「親善的誠意ノ披瀝」であるから、その可否は中国政府の「対日誠意」の検討によって決定されるべきであるが、「南京政府ノ対日提携政策ハ現在ノ処之ヲ純正ト判断スルコト能ハス」、したがってこの時点での大使館昇格は「最モ策ヲ得サルモノニシテ日支ノ関係ヲ実質的ニ危殆ニ陥レルモノナリ」、というのが陸軍の論理であった。「支那ハ由来相手カ一歩ヲ退ケハ必ス一歩ヲ進ムル」傾向を有し、大使館昇格後の論調を見ても、「畢竟支那ノ対日軽侮、対日硬化ヲ誘致シタルニ過キ」ないと判断されたのである。」(48〜49、65([]内))
 
 「ここで注目されるのは、「国民政府の実権が蒋介石という個人あるいは彼を中心とする「私党」に握られているとの・・・磯谷<らの>・・・捉え方である。・・・
 ちなみに磯谷<らは、>ソ連の援助を受けた共産党を侮るべきではないと述べながら、中国共産化の危険性は小さいと判断していた。
 こうしてみると、「支那通」たちが問題としていたのは、北伐時のように国民党が共産党に乗っ取られ過激化することではない。あくまで国民政府が排日を利用して政権強化をはかっていることが問題なのであった。」(50〜51)

→その通りなのでしょうが、繰り返しになるけれど、我々は、帝国陸軍の唯一最大といってよい潜在敵は赤露(補助線その1(1))なのであって、帝国陸軍は、支那の動向を、もっぱら、この潜在敵の抑止の観点からフォローしていた、ということを忘れてはならないでしょう。
 帝国陸軍は、蒋介石率いる中国国民党政権が自由民主主義的政権となることはありえない(補助線その2)、従って、見通しうる将来にかけて赤露抑止にとってマイナス要因であり続ける、と正しくも断定するに至ったわけです。(太田)

 「その後間もなく、中国は国家統一に向けて大きな一歩を踏み出す。国民政府がイギリスの援助を得て幣制改革を断行し、経済的な面でのコントロールを強化しようとしたのである。現地陸軍はこれに激しく反発し、ことに関東軍は華北を国民政府の統治下から実質的に分離させようとする北支工作推進のために軍事的圧力を加えようとしたが、陸軍中央によってようやく制止された。それでも強引な北支工作により、満州国との国境に隣接した非武装地帯に冀東防共自治委員会が成立し、国民政府からの離脱独立を宣言した。その後、華北へのコントロールを強化しようとする国民政府、これを阻止しようとする日本陸軍、国民政府のコントロールを嫌いながら日本の支配にも反発する華北将領、これら三者の間のせめぎ合いから妥協の産物として冀察政務委員会が組織されたのが1935年の暮れであった。」(54)

→そこで、帝国陸軍は、旧支那通の考え方を採用し、そのために支那を再度分裂させるべきであると考えるに至り、関東軍等は、かかる陸軍中央の意を忖度して、自分達が駐留している地域周辺において、中国国民党政権から自立し、日本が「指導」できる地域を二か所つくりあげた、というわけです。
 この頃の帝国陸軍中央と関東軍等の関係は、日本型政治経済体制論(補助線その3)で理解すべきでしょうね。(太田)

 「関東軍参謀長の板垣征四郎は外相に就任する予定の有田八郎<(コラム#3784、4274、4374、4392、4618、4998、5440)>駐華大使に・・・「現状ヲ以テ推移セハ蘇聯ト帝国トハ早晩必ス衝突スヘキ運命ニアリ」とし、「日蘇開戦ニ際シテハ支那ヲシテ蘇聯ノ友邦タラシムヘキ公算極メテ大ナルモノアリ」との判断を示した。なぜ、日ソ戦の場合に中国がソ連側に加担すると考えなければならないのか。その理由を板垣は次のように論じている。
 
 「南京政権ノ思想的根拠ハ排日ヲ生命トスル国民党ニシテ財政的根拠ハ欧米就中英国勢力ヲ背景トシ日本ノ経済的勢力ト両立シ得サル浙江財閥ナリ若シ日本ト親善関係ニ入ラハ其時既ニ南京政権ハ存立ノ意義ヲ失フへシ」
 
 要するに、「国民党ヲ背景トスル現南京政府ハ如何ナル手段ヲ以テスルモ絶対ニ帝国ト親善関係ニ入ル能ハサル本質ヲ有ス」とされ、南京政府が自ら政策を根本是正する可能性はないと見なされたのである。国民政府がイギリスの援助によって幣制改革を断行し国家統一を進めた状況の進展は、南京政府に対する不信を強めていた。
 板垣はさらに、国民政府の対日親善への転向がなされない原因として、国民党の本質のほかに、従来の日本の対中国政策が「支那及支那民衆ノ本質ヲ無視セル抽象的原則ノ樹立ニ終始シ何等実質的成果ヲ獲得シ能ハサリシ」ことを指摘した。ここには、政府のいわゆる「広田三原則」に対する批判が込められている。では、中国の実態あるいは民族性に合致した政策として、日本はどのよな方針を採用すればよいのか。板垣は以下のように述べる。

 「其要点ハ支那大陸ヲ人文及地文上ノ見地ニ基キ分立セシメ其分立セル個々ノ地域ト帝国ト直接相結ヒ帝国ノ国力ニ依リ相分立セル勢力ノ相克ヲ阻止シ各地域内ニ於ケル平和ノ維持ト民衆ノ経済的繁栄ヲ図リ以テ支那ニ於ケル排日ノ根絶ト日満支提携ノ実ヲ挙ケントスルニ在リ」

 これこそ、いわゆる文治合作論である。板垣は中央政府としての国民政府の正当性を否定する一歩寸前にあった。

→関東軍が、上記の考え方の「理論化」を図ったことが見て取れます。
 せっかくの理論も、有田八郎に聴かせたところで、馬の耳に念仏だったでしょうが・・。
 英国は、その中長期的国益に反して中国国民党政権との癒着政策を遂行し、日本の足を掬ったということです。ただし、英国をしてそのような政策を採らせたことには、日本政府、とりわけ幣原喜重郎に代表されるところの外務省の責任が大きい、とかねてから私は指摘してきたところです。(補助線その4(1))(太田)

 約半年後の1936年9月、今度は軍務局長の磯谷<廉介(注5)>も国民政府否認を示唆する議論を展開するに至る。磯谷はまず次のように国民政府の「指導精神」を批判する。
 (注5)1886〜1967年。「大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、・・・陸軍士官学校・・・、陸軍大学校」中将。
 「192<5>年・・・8月、参謀本部付として広東に赴任し1928年・・・2月まで駐在。・・・陸軍の中では中国通を自認し、中国公使館付武官、大使館付武官を歴任した後、1936年・・・3月・・・に軍務局長となり、二・二六事件の収拾に尽力。・・・1937年・・・、第10師団長に親補され日中戦争に出征し、徐州会戦などに参加。1938年・・・6月には関東軍参謀長に栄転するが、翌1939年・・・9月にノモンハン事件の敗北の責任を取り参謀長を辞任し参謀本部付となり、同年11月に待命、翌月、予備役に編入された。
 太平洋戦争が始まり、日本が香港を占領すると召集を受け香港総督に就任(1942年2月・・・- 1944年12月・・・)・・・。
 戦後、南京軍事法廷に戦争犯罪人として起訴され、・・・終身刑の判決を受けた。・・・巣鴨プリズンで服役し、1952年・・・に釈放され1967年に死去。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E8%B0%B7%E5%BB%89%E4%BB%8B

 「内部に於きましては、殆ど指導精神其ものが、広東以来変つて居らぬのでありまして、此指導精神に依つて養はれて居る所の南京政府であり、又支那の殆ど全土に此指導精神が行旦つて居るのであります。精神の普及の基幹をなして居るのは、国民党部であります。国民党部と云ふのは、殆ど純粋な広東依頼の国民革命と云ふやうなことをモットーに致しました、ロシヤの指導に依つて生れました所の所謂指導精神、ロシヤから吹込まれた所の指導精神、之を堅持して居る所のものが即ち国民党部であります。此国民党部に依つて指導されて居る所の、此精神と云ふものが変らない限りは、日本と提携なんと云ふことは、実際思も寄らぬことなんであります。」

 磯谷の言う「指導精神」とは、第一次国共合作以来のソ連の思想的影響を意味しているようだが、他方で、「党部が南京政府を中心にして、自己の政権勢力を、何処までも維持して、何処までも増長させて行かうと云ゆのが、本当の真髄であるんぢやないか」と述べているところをみると、そうしたイデオロギーを権力維持・拡大のために利用することまでもその「指導精神」は含んでいたと捉えるべきであろう。したがって、「明日から共産主義を実施しようと思って、中央政府の、仮に蒋介石なら蒋介石が明日から共産主義を支那にやるんだと云ふことを云へば、明後日を待たずに全支那に於て共産主義が相当実行されたることと存じます。其位の政府なんであります」と彼が述べているのは、共産主義の思想的影響力と国民党部による強力な統制を指摘しているのであり、中国共産党による「赤化」の脅威を訴えたわけではなかった。
 かくして磯谷は「指導精神」が改められないかぎり、日本としては国民政府の承認取消も考慮する必要があると論じる。」(55〜58)

→その上で、陸軍中央も「理論化」を図ったわけです。(太田)

 「では、日本が国民政府の正統政権としての承認を取り消した後、中国情勢はどのように変わるのか、磯谷によれば、南京政府が「指導精神」を改めるものと改めぬものとに分かれ、後者は「第二共産軍」とも言うべき地方政権化してゆくという。問題は前者、つまり「指導精神」を改めた方である。・・・
 磯谷は、反日強硬派を切り捨てれば、蒋介石との妥協すらまだ可能であるとし、彼を首班とした新しい中央政府樹立の可能性も認めていた・・・。しかし、その前に従来の国民政府(国民党政権)は否認されねばならなかったのである。
 さてこの年11月綏遠事件<(Suiyuan Campaign)(コラム#4008、4010)>が発生し、中国軍が関東軍の後押しする内蒙軍を打ち破った。これが関東軍そのものを敗走させたと伝えられ、中国全土の抗日熱は高まる。12月、西安事件により一致抗日の機運はさらに高まりを見せることになる。

→その後の支那を巡る情勢の展開を見れば、帝国陸軍の東アジア情勢観が極めて的確であったことは明らかでしょう。
 それは当然のことであり、当時の日本政府において、対外政策関係省庁中、世界情勢に相対的に最も明るかったのは陸軍であり、海軍がそれに次ぎ、外務省は最も昏かったからです。(補助線その4(2))
 しかし、政府全体が、帝国陸軍の「理論」を受け容れたわけではなかったことから、支那において、帝国陸軍の中央と出先が一丸となって、上記「理論」に基づく行動をとれなかったことが蹉跌をもたらします。
 対赤露策源地の拡大と赤露・支那本体の完全遮断を目指した第一歩たる内蒙工作は、余りにも及び腰であったため、綏遠事件で失敗に帰してしまうのです。
 (政府と陸軍中央との関係を含め、補助線その3で理解していただきたいですね。)(太田)
 
 関東軍の国民政府に対する見方はよりきびしさを増した。「今ヤ抗日思想ニ於テ蘇支両国ハ完全ニ一致シ更ニ具体的軍事勾結ヲ見ントスルニ至レリ」とされ、中国は「逐次蘇聯容共的色彩ヲ濃厚化スルノ虞アリ」と観察された。それゆえ関東軍は、対ソ戦の場合の国民政府の向背を以前にもまして懸念しなければならなかった。関東軍は、「南京政権ヲシテ北支自治ヲ承認セシメントスルカ如キ所謂受権主義ヲ放棄シ工作ノ進展ハ一ニ帝国ノ自主的施策ニ依ル如クス」という方針を掲げたが、これは、あくまで南京政府の承認の下で、すなわち南京政府の権限委譲という形式をとって華北の自治を追求する、との日本政府および陸軍中央の方針に反するものであった。さらに関東軍は、華北に対しては経済工作主体で臨むべきであるとの主張を批判し、政治工作が必要不可欠であうと述べた上で、究極的には武力の行使にも躊躇すべきでないと論じた。

→そこで、関東軍等は、「中国国民党政権から自立し、日本が「指導」できる地域」を中国国民党政権から完全に「独立」させようと画策し始めた、ということです。(同上。)(太田)

 「若シ現状シナノ悪化ヲ放置シ北支ノ完全ナル南京化ヲ想定センカ対蘇支戦争ノ場合支那ニ指向スル兵力ハ現下北支処理ニ要スル兵力ニ数倍スルヲカクゴセサルヘカラス」
 「対ソ作戦ニ先ンシ支那ヲ料理スル為北支ニ兵力ヲ行使スルハ何等憂慮ヲ要セス有利ニ進捗セハ対ソ開戦ニ際スル兵力ヲ節約シ得ル結果トナルモノト信ス」」(58〜60)

→ここには出てきませんが、(多分間違いなく)赤露の工作の下、日本の機先を制する形で、中国国民党政権は対日開戦を、盧溝橋において行い、英国による同政権への有形無形の支援もあって(補助線その5)、日本は日支戦争の泥沼に足をとられて行くことになります。(太田)

3 終わりに

 以上、私が引いた補助線を改めて列挙しておきましょう。

 補助線その1:戦前の日本の対外政策の基本は横井小楠コンセンサス
  系(1)対露(赤露)安全保障
  系(2)自由民主主義普及
 補助線その2:蒋介石率いる中国国民党政権は非自由民主主義的政権(容共と腐敗ファシズムの間を揺れ動く存在)
 補助線その3:昭和に入ってからの日本は縄文モード(日本型政治経済体制)
 補助線その4:戦前、対外政策関係省庁中最もマシであったのは帝国陸軍であり、最もダメだったのは外務省。帝国海軍はその中間
  系(1)戦前における日英関係、ひいては日米間系破たんの一義的責任は外務省にある
  系(2)国際情勢に最も明るかったのは帝国陸軍、最も昏かったのは外務省。帝国海軍はその中間
 補助線その5:日支戦争を泥沼化させたのも、日本を対米開戦へと追い込んだのも英国

 果たして、これによって戸部良一論考が、本当により分かり易くなったかどうかは、各自ご判断いただきたいと思います。

 それにしても、この論考の上記抜粋中に登場した新支那通達・・日本政府部内はもとより、帝国陸軍の中でも支那を巡る国際情勢に相対的に最も明るく、相対的に最も適切な対支政策を追求した陸軍軍人達であり、支那の最良のシンパであった人達でもある・・5人の晩年が余りにも悲惨であったことに気の毒な思いで一杯です。
 このうち、畳の上で死ねたのは磯谷のみであり、彼もまた長期間にわたる刑務所暮らしを強いられたのですからね。
 私の日本戦前史見直し作業が、彼らを始めとする戦前の大部分の日本人・・その多くは悲惨な体験をした・・の、真の意味での鎮魂につながることを願って止みません。