太田述正コラム#5563(2012.6.27)
<映画評論34:インビクタス(その1)>(2012.10.12公開)

1 始めに

 クリント・イーストウッド監督の『インビクタス/負けざる者たち(Invictus)』(2009年。米国)の映画評を、前々から申し上げていたところ、遅ればせながらお送りします。

A:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%93%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%82%B9/%E8%B2%A0%E3%81%91%E3%81%96%E3%82%8B%E8%80%85%E3%81%9F%E3%81%A1
(6月24日アクセス。以下同じ)
B:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89
C:http://en.wikipedia.org/wiki/Invictus_(film)
D:http://en.wikipedia.org/wiki/William_Ernest_Henley
E:http://en.wikipedia.org/wiki/Invictus

2 プロローグ

 最初にまず、一見些末な話ではあるけれど、ある意味では深刻な問題を片づけておきましょう。
 この映画に関する日本語ウィキぺディアに以下のくだりがあります。

 「ネルソン・マンデラの自伝『自由への長い道』が出版された際、記者の「映画化されるとしたら誰に演じてもらいたいか」との質問にマンデラはモーガン・フリーマンの名前を挙げた。それをきっかけに、フリーマンは南アフリカのプロデューサーを通じてヨハネスブルグにあるマンデラの自宅への訪問を実現した。そしてフリーマンは自伝の映画化権を買い、本作品の制作を決定した。
 モーガン・フリーマンとクリント・イーストウッドが組むのは『許されざる者』(1992年)『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年)そして本作品の3回目となる。フリーマン自身が本作品の脚本をイーストウッドに送り、監督を依頼した。後日イーストウッドが「是非やりたい」と快諾した。その時の出来事をフリーマンは「クリントを説得したのは私じゃなく、その脚本さ」と笑いながら話している。」(A)

 このくだりを書いた人は、マンデラの『自伝』と、ジョン・カーリン(John Carlin)が、1995年に南アフリカで開催されたラグビーのワールドカップについての史実を踏まえて書いた、『敵との試合:ネルソン・マンデラと国をつくった試合(Playing the Enemy: Nelson Mandela and the Game that Made a Nation)』とを混同しています。
 (マンデラの『自伝』が映画化されたかどうかは、私は関知しません。)
 それにそもそも、この映画の制作者の一員でもないフリーマンが、4人の制作者の一人でもあるところのイーストウッドに、監督就任を依頼するわけがありません。
 そんなことはありえないのです。
 話は逆であって、(イーストウッドを含む)制作者達が一番最初にキャスティングをしたのが、フリーマンだったのです。
 (以上、事実関係はCによる。)
 こんな間違いが、恐らくこの映画の日本での2010年の公開前後にはできたと思われる日本語ウィキペディアで、(最初からこのくだりがあったのかどうかまでは分からないけれど、)長期にわたって訂正されずにきたことは、まことに遺憾です。

3 テーマ

 この映画のテーマが、人生はそもそも苦しいものであるが、にもかかわらず、どう前向きに生きるか、であることについては、以前、(コラム#5555で)既に私は示唆していたところです。
 では、この映画の主人公であるマンデラにとって、人生は、どのように苦しいものであったのでしょうか。
 その一つは、アパルトヘイト下の南アフリカで生きなければならなかったことであり、それに抵抗した結果、27年間に及ぶ刑務所暮らしを強いられたことです。
 この映画の中で印象的な場面が出てきます。
 それは、ワールドカップ直前に、南アの代表たるラグビー・チームの「スプリングボクス」が、マンデラが最も長期にわたって収容されていた刑務所を訪れた時、この映画の副主人公であるところの、同チームの主将のフランソワ・ピナール(Francois Pienaar)が、こんなに小さな独房でかくも長い時間を過ごしながら、出獄後、自分をそんな目に遭わせた人々を赦せたことに驚愕する場面です。
 つまり、マンデラは、自分が出獄後、南アフリカの指導者になること予見し、その暁には、白人達を赦し、白人と黒人を和解させ、両者に手を取り合った新しい国づくりをさせよう、と心に期していたのです。
 そんなマンデラが、そのための手段の一つとして目を付けたのが、ラグビーであり、南アフリカでの開催が決まっていたラグビーのワールドカップでの優勝だったのです。(注1)

 (注1)「当時南アフリカでは、英国発祥のラグビーは白人もしくはある程度の地位を獲得した富裕層の行なうスポーツであるという印象が強かった。また、ラグビーはルールが複雑であり、教育水準の低い貧困層の多い黒人の間では受け入れられず、専らサッカーが主流のスポーツであった。劇中の冒頭では、白人の観客は南アフリカを応援しているが黒人は敵のチーム(イングランド代表)を応援しているシーンが描かれているほか、フェンスを一つ隔ててラグビーを練習中の白人の若者と、裸足でサッカーに興じている黒人の子供、といった描写で対比させている。・・・
 南アフリカ代表のラグビーチーム「スプリングボクス」は当時低迷期にあり、黒人選手もわずか1人という状況だった。ラグビーはアパルトヘイトの象徴として、多数を占める黒人の国民のあいだでは非常に不人気なスポーツだった。政府内では「スプリングボクス」のチーム名やユニフォームの変更を求める意見が多数を占めており、一時はその方向で決まりかけていた。しかしマンデラはこのチームが南アフリカの白人と黒人の和解と団結の象徴になると考え、チーム名とユニフォームの存続を求め周囲を説得<する。>」(A)

 マンデラのもう一つの苦しみは、出獄したマンデラのこのような考え方・・マンデラはカネにも無頓着だった・・に、27年に及ぶ彼の不在中に辛酸を舐めた妻のウィニーはもとより、ウィニーとの間の子供達まで理解を示さず、碌に彼のところに寄りつかなかったことです。(マンデラは、結局、ウィニーと離婚します。(コラム#5476))
 不思議なことに、この点に、この映画に関する日本語のウィキペディアはもちろん、英語のウィキペディアも全く言及していません。
 私は、イーストウッドは、この点を強く意識していた、と見ています。
 彼は、息子のスコット・イーストウッド(Scott Eastwood)をこの映画に起用し、脇役ながら、彼に、ワールドカップの決勝戦で決勝点を叩きだす選手というおいしい役をやらせていますし、もう一人の息子のカイル・イーストウッド(Kyle Eastwood)にはこの映画の音楽を担当させています。(A、B)
 スコットは、『父親たちの星条旗』と『グラン・トリノ』というイーストウッド監督作品に出演したほかにも、4本の映画に出演している(B)のに対し、カイルが映画音楽を担当したのは、『硫黄島からの手紙』と『グラン・トリノ』とイーストウッド監督作品だけ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89
であり、『グラン・トリノ』に引き続き、この二人に再びこの映画でそろい踏みをさせたのは、いささか身内びいきの誹りを免れませんが、私には、これはイーストウッドが、自分の家族的幸せとマンデラの家族的不幸とを対比させたかったからこそ意識的にそうしたのだ、と思えてならないのです。

(続く)