太田述正コラム#5561(2012.6.26)
<ドーキンス・ウィルソン論争>(2012.10.11公開)

1 始めに
 
 あの集団淘汰論(正確には多レベル淘汰論)のエドワード・ウィルソン(Edward O. Wilson)(コラム#5442以下、5507)に対して遺伝子淘汰論(正確には包含的淘汰論)のリチャード・ドーキンス(Richard Dawkins)(コラム#2629、3616、3718、3721、5284)が噛みついた、となるとこれは大ニュースです。
 これが遺伝学の域を超えた大きな意味を持つ論争であるだけでなく、二人とも、遺伝学の世界的権威で超有名人であって、片や米ハーヴァード大、片や英オックスフォード大のセンセですからねえ。
 こんなガクシャの大センセの論争ですから、核心部分については敬して遠ざかることにし、私の関心がある周辺的な部分をご紹介するとともに、私の感想を記したいと思います。

2 論争

 (1)ドーキンスによる批判

 「・・・特定の集団が他の集団より生き残りに巧みであることは疑いない。
 議論が起きるのは、異なった個人の生き残りがそうであるように、異なった集団の生き残りが進化を駆動する、という観念についてだ。・・・
 ウィルソンのテーゼは、彼とマーティン・ノワクとコリナ・タルニタという二人の数学者と共同で執筆した2010年の論文(コラム#5444)に立脚している。
 この論文がネイチャー誌に登場した時、140名を超える進化生物学者達から強い批判を浴びた。
 その中には、この分野における最も傑出した人々の過半が含まれている。・・・
 ・・・極めて権威あるエドワード・O・ウィルソンという名前抜きで匿名で通常の同僚審査に付されていたとすれば、この2010年の論文がネイチャー誌に載ることなどありえなかった、と相当の根拠をもって言えるだろう。
 権威がこの論文を世に出さしめたということであれば、返答として権威を用いることにも詩的正義があろう。・・・
 ウィルソンは、彼のネイチャー論文が<進化生物学者達から>受けた深刻なる<批判の>痛撃を無視している。
 彼は、これらの夥しい批判どころか、そのわずか一つの、切り離された文章、に言及することすらしない。
 彼は、自分が権威があるから、あたかも、専門的論議が存在していないかのように、そして、彼の(小ちゃな)少数意見が受け容れられ決着が付いたかのように、専門家達の頭越しに一般の聴衆に対して直接訴えかけることを正当化できるとでも思っているのだろうか。 
 「<血族淘汰なる>美しい理論はうまく働くことはなかったし、今やそれは崩壊した」<とウィルソンは言うが、>それはうまく働いたし、崩壊してもいない。・・・
 子供達の世話や親達の世話が好まれるのは<親と子供の遺伝子の共有度が高いからこそなのだ。>・・・
 <私の見解では、>遺伝子は第一義的複製者(replicator)であり、生命体(organism)はその乗り物(vehicle)なのだ。
 では集団は?
 集団に関してだが、それは複製者でないことは確かだ。
 それでは乗り物か?
 もしそうだとすれば、「集団淘汰」はもっともらしいということになるかもしれない。
 <いずれにせよ、>重要なのは、ウィルソンのように、この問題と、個体が集団の中に生きることで裨益するかどうかという問題とを混同しないことだ。・・・
 家族を「集団」であると見ることもできるという事実など、<この際、>関係ないのであり、無益な脱線なのだ。・・・」
http://www.prospectmagazine.co.uk/magazine/edward-wilson-social-conquest-earth-evolutionary-errors-origin-species/
(6月24日アクセス)

 (2)中立的立場の学者のコメント

 「・・・中心的な問題は、生命体、器官、細胞、遺伝子、或いは遺伝子によって規定されるDNAの部分でさえ、<このどのレベルにおいても、>「適者性(fitness)」を定義することが不可能な点に存するという見解がある。
 そうだとすれば、この議論では、ドーキンスもウィルソンも共に「見かけ倒し(straw man)」である、という見方もできる。
 <いずれにせよ、>ドーキンスは、彼の<ウィルソン>批判の中で不必要な修辞を用い過ぎた・・・。・・・
 ・・・そもそも、遺伝子に良い(good)も悪い(bad)もない。
 遺伝子の働きはそんな単純なものではないのだ。
 遺伝子は、異なった文脈の中で使用され、再使用される。
 所与の生命体や集団においては、個々の遺伝子は、異なった全般的適者性価値を持っているのかもしれない・・・。
 後の人生において、ダーウィンは、自分の理論を自然淘汰(natural selection)ではなく自然保存(natural preservation)と呼ぶべきだったと述べた。
 しかし、特定の遺伝子が保存されたからといって、それはこの遺伝子が良いことの証明にはならないのだ。・・・」
http://www.guardian.co.uk/science/2012/jun/24/battle-of-the-professors
(6月24日アクセス)

 (3)ウィルソンによる反論

 「<血族とか個体とか遺伝子といったもののうちの一つに着目した>包含的(inclusive)適者性理論は時にはうまく働くけれど、その数学的基礎は危うい(unsound)し、そもそも、包含的適者性それ自身が達成し難い幻の代物(unattainable phantom measure)なのだ。
 それとは対照的に、<集団、血族、個体、遺伝子の全てに着目した>多レベル淘汰は数学的に堅固であり(sound)、分析的に明晰であり、人間の社会的ふるまいを含む現実の諸事例においてうまく働くのだ。
 我々の議論の科学性は、18カ月経った現在まで、論駁されることはなかったし、深刻な挑戦すら受けなかった。
 とりわけ、ドーキンス教授の<上掲>プロスペクト誌掲載記事で引用されたところの、1970年代の包含的適者性<理論>の古典的バージョンの挑戦など受けなかった。
 (実のところ、ドーキンス教授が主張するところの、スティーヴン・ピンカー(Steven Pinker)とロバート・トリヴァース(Robert Trivers)はその中に含まれていないのだが、)<我々に>抗議した者が多数いた<ことは事実ではある>ものの、同等の資格ある人々が<我々が>提案した新説を好んだ<こともまた事実な>のだ。
 いずれにせよ、<ドーキンス教授が>こんなリストをつくるのは無益なことだ。
 念頭に置くべきは、もしも科学が修辞と<賛同者の>数に拠っていたとすれば、我々はいまだに物をフロギストン(phlogiston)で燃やしているだろうし、地動説の地図で航海をしていることだろう、ということだ。」
http://www.prospectmagazine.co.uk/magazine/edward-wilson-social-conquest-earth-evolutionary-errors-origin-species/ 前掲

 ウィルソンは、別の論考で、以上を繰り返した上で、以下を付け加えています。

 「・・・自分を取り巻く大人達の特定のにおいや音を幼児が学ぶ、人生の最初の数日から始まるところの、人間が他の人間に対して抱く、濃厚で強迫観念的な関心<を思い起こせ。>・・・
 人間のふるまいとして二番目に診断されるところの遺伝的特異性は、いの一番に集団に属すことへの抗い難い本能的衝動だ。・・・
 この趨勢は、100万年から200万年前頃、人類の初期の祖先であるホモ・ハビリス(Homo habilis)が食餌に次第に多く肉を摂るようになった時に始まったように見える。
 単一の場所で集団が身を寄せ合うようになり、協力的な巣の建設と協力的な狩りによる優位も加わり、前頭前野皮質における記憶と理論的思考の発達と平行して社会的知性が発達した。
 おそらくこの・・・時点において、同じ集団内の個体同士が競争し合うところの個体レベルの淘汰と、集団相互が競争し合うところの集団レベルの淘汰、との間で紛争が生起したと思われる。
 後者の力は利他主義と集団構成員全員の相互の協力とを促進した。
 それは、集団全体を通じての道徳性と良心及び名誉の感覚へと導いた。
 この二つの力の間の競争者は、以下のように簡潔に表現できる。
 すなわち、集団内では利己的個人が利他的個人をやっつけるが、利他主義者の集団は利己的個人の集団をやっつける。
 或いは、単純化し過ぎかもしれないが、個体淘汰は罪を促進し、集団淘汰は徳を促進した。・・・
 個体淘汰から生まれた本能的諸衝動に完全に身を委ねると社会が解体する。
 <他方、>集団淘汰からくる諸衝動にひれふせば、我々は、昆虫の研究者達が蟻と呼ぶところのもの、すなわち、天使的なロボットに変身する。・・・」
http://opinionator.blogs.nytimes.com/2012/06/24/evolution-and-our-inner-conflict/?ref=opinion
(6月25日アクセス)

3 終わりに

 この論争は、説の数学的な美しさの度合いだけでは決着はつかないのであって、実験科学的な、或いは考古学的な、或いは歴史学的な、すなわち、実証的な確証が得られるまで続くことでしょう。
 しかし、直観的には、この二人のうちでは、ウィルソンに軍配をあげる人が、私を含め、日本人には多いのではないでしょうか。
 しかし、以前にも結論的には同趣旨のことを申し上げたのではないかと思いますが、私はウィルソンにもあきたらないものを覚えます。
 しょせん、ドーキンスの説は、アングロサクソンの個人主義的タテマエに強く影響されているのに対し、ウィルソンの説は、アングロサクソンの平時の個人主義(利己主義)/有事の集団主義(利他主義)、というホンネに強く影響されている、ということではないか、と思えてならないからです。
 それなら、我々日本人の中から、人間主義・・個人主義や集団主義を超越したもの・・に強く影響された遺伝学が登場したってよいはずですし、私に言わせれば、かかる遺伝学の方が、ドーキンスの遺伝学はもとより、ウィルソンの遺伝学よりも、更に普遍性がある、と信じて止まないのです。