太田述正コラム#5553(2012.6.22)
<再び義和団の乱について(その3)>(2012.10.7公開)

 (3)終焉

 「・・・どのように義和団の乱は終焉を迎えたのか・・・のかはミステリーだ。
 義和団員達は、8月の中頃、支那軍外に干した状態で、単に消滅してしまったのだ。
 義和団は、短時日で北京を失い、皇后と皇帝は逃亡しなければならなかった。
 義和団員達がどこに行ったかを本当に説明する歴史書は皆無だ。
 1900年の1月から7月にかけて、降雨量は月平均1インチを下回っており、これは極めて低い水準だった。
 これは、旱魃だった。
 しかし、1900年8月には15インチ、9月には10インチの降雨量があった。
 旱魃が終わった時、<著者は、>義和団に参加した男達は、さあてと、俺達は、冒険の時を過ごすことができたし、何人かの外国人達をぶっ殺すことができたし、<清>王朝を支援することができたんだから、今や農民としての本来の生活に戻るべき時だ、ということが起こったと考える。
 すなわち、彼らは、単に家に戻ったのだ、と。・・・」(D)

 (4)影響

 「・・・<清王朝の>敗北はその転機にな<り、その10年後には清は滅亡する。>
 英領インドは、義和団を鎮圧するために部隊を送ったが、すぐに自らの革命運動の渦中に投げ込まれることになった。
 日本は、この戦争を通じ、「自分達がアジアを左右する立場にある(hold the whip hand)」ことを学び、すぐに<日露戦争で>ロシアを破り、その後、支那を乗っ取る(take over)ことになった。・・・」(A)

 「・・・この蜂起は、最終的には失敗に帰したけれど、農夫たる抵抗者達の一世代を鍛え上げたのであり、彼らは、「支那において、真のマルクス主義的革命を準備するという、大変でかつ汚い仕事をなしとげた」と毛沢東は信じた。・・・」(B)

 「・・・義和団の乱の長期的帰結<だが、>・・・それは支那王朝の崩壊を確実なものにした。
 そして、それは、支那における革命諸分子が、<清>王朝の無力さ(fecklessness)と欧米の汚い帝国主義のを二つながら目撃した時だった。
 毛沢東や孫逸仙のような人物は、義和団員達から強い教訓を得た。
 <義和団の>全球的帰結<と言えば、>それは、日本がアジアにおける上昇する大国であることを再確認したことだ。
 米国もまたアジアの大国となり、支那とフィリピンにおいて若干の種類の役割を演じる決意を固め、そうすることで、日本と米国は衝突に至るコースに置かれることとなったのだ。・・・」(D)

3 終わりに

 義和団については、大昔にシリーズで取り上げたことがあった(コラム#752、753、754、755)ほか、コラム#4542と4908でもかなり詳しく言及しており、また、コラム#36、597、768、3934、4004、4272、4386、4416、4464、4486、4494、4530、4594、4958、4970、5034、5310、5323、5430、5543で言及しているところ、今回は、義和団の乱の発祥の地である山東省に関する歴史や当時の状況についての記述や、義和団の不思議な終焉についての記述を除き、それほど目新しい話は出てこなかったように思います。
 それはさておき、このプラットの本については、義和団との戦いにおいて、日本軽視が甚だしいことに、まず、奇異な感を受けました。
 そもそも、この本の表紙は義和団との戦いの場面(大方の書評を参照)なのですが、日本軍が見当たりません。
 何せ、総計54,280名の連合国軍中、日本軍は、20,858名
http://en.wikipedia.org/wiki/Boxer_Rebellion
と4割近かったのですから、おかしいですよね。
 それに比し、Dの書評が、義和団と戦う日本軍を描いた日本の錦絵を挿絵として採用しているのは、見識だと思います。
 もう一つは、このこととも関連するのですが、いかにも米国人の著書だなと思ったのは、ドイツと日本に対する偏見に根差すかのような記述が散見されたことです。
 ドイツの宣教師の悪しきふるまいを強調したり、「日本は、・・・その後、支那を乗っ取る(take over)ことになった。」といった乱暴な表現をしたり、には苦笑せざるをえませんでした。

 (完)