太田述正コラム#5543(2012.6.17)
<再び太平天国の乱について(その4)>(2012.10.2公開)

 「・・・上海に拠点を置く英米共同宣教派遣団を率いていたところの、米テネシー州出身の浸礼派で「常軌を逸した特異な」アイザッチャー・ロバーツという男は、太平天国を積極的に擁護し、太平天国と交渉した。
 他方、選良階級たる植民地外交官達、いわゆる「支那通(China Hands)」達、及び、強力な商人達は、現状維持を好み、彼らに対して第二次阿片戦争<(注13)>をしかけたばかりだというのに、清を支持した。

 (注13)アロー戦争(・・・Arrow War)。「1856年から1860年にかけて清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争である。最終的に北京条約で終結し、清の半植民地化が決定的なものとなった。きっかけとなったのはアロー号事件だが、戦争の目的からアヘン戦争に続く第二次アヘン戦争(・・・Second Opium War)とも呼ぶ。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%BC%E6%88%A6%E4%BA%89

 太平天国は、無邪気にも、彼らの同僚たるキリスト教徒達から蒸気船とアームストロング砲入手しようとしたが、ひどく落胆させられることになる。
 結局、これらの兵器は最終的には彼らに対して使用されることになった。
 まずは、華やかな、米マサチューセッツ州出身の傭兵たるフレデリック・タウンゼント・ウォードと、彼の、財宝狙いの欧米の兵士達と支那人たる募集兵から構成される雑多な成員の「常勝軍(Ever-Victorious Army)」、そして後には、英軍の将校達によって・・。・・・」(D)

 「・・・1851年に太平天国の乱が勃発した時点では、満州人の支配者達は、阿片戦争(1839〜42年)における彼らの大災害的敗北から、なお恢復の途上にあった。
 英国の砲艦群が支那の閉ざされた諸ドアを交易のために強制的にあけさせてから、速やかに、英国は、支那の沿岸における広範な商業的諸利益を得た。
 太平天国の叛徒達が揚子江沿いの主要諸都市を奪取し・・彼らはその首都を、揚子江の航路にまたがる、南京に打ち立てた・・、条約<によって開港させられた>港湾である上海を中心としていた交易を攪乱する脅威を与えるに至ったことから、英国は困惑することになった。
 腐敗し、無能で二枚舌的な満州人の支配者達を侮蔑していたがゆえに、英国政府は、この帝国の宮廷にいかなる軍事的支援を与えることにも乗り気ではなかった。
 しかし、叛徒達は、その疑似キリスト教的魔力・・太平天国の創建者たる洪秀全は、イエスの弟であると主張した・・にもかかわらず、彼らの外国人達への姿勢には量りかねるものがあっただけでなく、彼らは、支那南部の英国人商人の生命や財産に対して直接的脅威を与えた。
 解決方法<として英国によって採用されたの>は、実際には累次の違背を伴いつつも、中立政策だった。
 公平に言えば、英国は、その中立を破ることを正当化する理由を容易に見出すことができた。
 条約上の諸義務を破り、英仏派遣部隊を待ち伏せ攻撃したところの、満州人の支配者達を処罰するため、英国政府は、強力な派遣部隊を1860年に送り、清の皇帝を北京から追い出し、彼の愛する夏宮(Summer Palace)を焼滅せしめた。
 (その遺跡は、欧米の帝国主義者達の手によって支那が受けた屈辱を思い出させるものとして、今日においても手つかずのままにされている。)<(注14)>

 (注14)下掲から、このくだりには疑問符がつく。
 「1764年・・・乾隆帝<によって、>・・・清漪園が完成している。・・・1860年・・・、第二次アヘン戦争で英仏の軍隊により消失してしまった。・・・1884年から1895年・・・にかけて西太后の隠居後の居所とすべく光緒帝の名により清漪園の再建が命令された。しかし・・・北洋艦隊を整備する海軍予算を再建費に流用していたことで日清戦争敗北の原因の一つとなったと言われる・・・。1900年・・・、義和団の乱を鎮圧すべく出兵した八ヶ国連合軍の一部により破壊を受けたが、1902年・・・に修復されている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%A4%E5%92%8C%E5%9C%92
 
 同じ年に、叛徒達が上海を占領するのを防ぐため、英国は、同盟者たるフランスとともに、攻撃を仕掛けてきた叛乱軍を圧倒的な火力でもって粉砕した。
 英国は、その2年後には、寧波(Ningbo)の町の叛徒達に対して同様の攻撃を行った。
 プラットの本が答えようとする疑問は、果たして、この支那の交戦者達がこの紛争において優位を得るために欧米の支援を求めようとしたかどうかだ。
 叛徒達に関しては、その答えは、留保付きの然りだ。
 この物語における中心的人物は、かつて香港でのスウェーデン人宣教師の助手を務めた、洪秀全の従兄弟である洪仁カンだ。
 太平天国の上級官吏・・彼はこの王国の外交を担当する首相に任命された・・として、洪仁カンは、叛徒は、帝国軍を打ち負かそうとするのなら、外国の支援を得る必要があることを理解していた。
 おおむね個人的に、洪仁カンは、欧米とのつながりを確立しようとする累次の試みを行った。
 しかし、彼のこれらの努力は無に帰した。
 本当のところは、洪が欧米との主たる仲介者とした宣教師達はそんな役割には不向きなのであり、案の定、うまくはいかなかった。
 懐疑的な英国は、南京において叛乱の指導者達に手を伸ばす試みをほんの少々行ったが、彼らが清の支配者達と同程度に不快な輩であることにすぐに気付いた。
 <英国は、>叛徒の指導者である洪秀全には、全く会うことができなかった。
 彼の最も有能なる将軍であるところの、忠義者の李秀成(Liu Xiucheng)王<(注15)>は、この洪仁カンの考えを嫌った。

 (注15)1823〜64年。広西省出身の客家人。1864年に南京が陥落すると、洪秀全の子の洪天貴福を守って脱出したが、清軍に捕らえられ、処刑された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E7%A7%80%E6%88%90

 念のためだが、満州人の支配者達自身も、英国の支援を受けることには、同じく、乗り気ではなかった。・・・」(E)

(続く)