太田述正コラム#5539(2012.6.15)
<私の現在の事情(続x20)/再び太平天国の乱について(その2)>(2012.9.30公開)

 --私の現在の事情(続x20)--

 0900〜0915に、残った一か所のカーテンの取り付け作業が行われ、カーテン取り付け代金を支払いました。

 昼過ぎに、西馬込駅周辺まで出かけ、現金をCDでおろしがてら、目を付けていた内科医の医院の場所を確認しました。
 同じビルの一階上には歯科があるので、歯科もここにするかもしれません。

 1800前後ですが、引っ越しの挨拶を開始しました。
 東側の半擁壁の上のお隣2軒に挨拶ができましたが、玄関を出てすぐの北側の向かいと斜め右手の2軒は不在でした。
 (斜め左手には家はありません。なお、上記の2軒は、本日は、深夜になっても明かりがともっていません。)
 西側は空き地になっており、その向こうの家は空き家なので、こっち方面は省略しました。
 (同じ平面上にほとんど人がいない状況が珍しくないとすると、結構危険な状況だな、という気がしてきました。ホントにここ、東京23区内なんですかねえ?)
 南側の擁壁の上の1軒については、どの家がそれなのか、坂を上り、裏側から探してもさっぱり分からず、挨拶するのを断念しました。 

 そうこうしているうちに、1830に工務店の人が訪れ、物置の設置位置等について再度調整するとともに、前回、持ち帰れなかった大きな建設資材を持ち帰ってくれ、かつ、ボンドで住所表示板を玄関わきのコンクリート壁に貼り付けてくれました。

 疲れがたまったのか、朝方からいささか体調を崩し、時々仮眠をとりながら、パソコンに向かう、という一日を過ごしました。
 コラムのバックナンバーの更新も先延ばしになっており、申し訳ありません。
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 --再び太平天国の乱について(その2)--

 (3)その後の展開

 「・・・彼の南京の首都から、太平天国の皇帝は、仏教と道教の寺院の破壊、共同住宅での男女別の居住、共同作業団(collective work brigades)<の設立>と共同プロテスタント礼拝(shared Protestant worship)<の実施>を命じた。
 歴史学者のマーク・エルヴィン(Mark Elvin)<(注6)>が最近記したように、<太平天国において、>「女性兵士の募集を含め、女性の社会的解放は相当程度実現した」。

 (注6)オーストラリア国立大学の支那史(専攻は後期帝政時代史)の名誉教授。欧州より科学的知識において進んでいた支那が産業化で後れをとったのは、前産業革命的生産手法が極めて効率的であったためだとし、また、自然科学的志向があった道教が廃れて道徳と秩序を重んじる儒教が支配的となったことも影響を及ぼしたとする。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mark_Elvin

 あらゆるものが清崩壊の前兆を示しており、太平天国の人々は、自分達を、滅亡した明王朝の愛国的仇討人達を装った。
 時々、満州族に対してジェノサイド的憤怒を奔らせるほどだった。
 他方、隠遁的な太平天国の皇帝に最も近い顧問として、洪仁カンは、プラットが「支那史における最初の改革のための真に全球的な提案…支那を近代的工業大国にというヴィジョン」と呼ぶところのものを起草した。
 この黄金時代は長くは続かなかった。
 役立たずの清皇帝の咸豊(Xianfeng)<(注7)>は若くして亡くなり、すぐに悪名高い西太后(Empress Dowager Cixi)<(注8)>として知られることとなる、満州族の妃が、自分の息子で5歳の同治(Tongzhi)の名の下で権力を奪取した。

 (注7)1831〜61年。皇帝:1850〜61年。芝居見物マニア。「即位後の<1851年>に太平天国の乱が勃発し、平行して1858年にはアロー戦争(第二次アヘン戦争)に敗北し、天津条約を結ばされた。この条約により北京への使臣常駐、キリスト教布教の公認、アヘン輸入の公認などを認めさせられる事になった。これにロシアも乗じて愛琿条約を結ばされた。
 1860年、この条約にも満足しなかった英仏連合軍は更に清軍を挑発する事で戦火を開き、北京にまで攻め上った。咸豊帝は・・・北京<から>熱河へ撤退した。・・・北京で英仏は円明園の略奪を行い、財宝の無くなった円明園に放火して証拠を隠滅した。
 その後・・・北京条約を結んだ。この条約により天津条約の内容に加えて天津の開港、イギリスへの九竜半島割譲などを認めさせられた。
 北京条約締結の翌年に咸豊帝は結核によって<熱河で>死去。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%B8%E8%B1%8A%E5%B8%9D
 (注8)1835〜1908年。慈禧太后=Cixi Taihou。「咸豊帝死後の政治の実権をめぐり、<同治>の生母である<彼女>と咸豊帝の遺命を受け<同治>の後見となった8人の「顧命大臣」・・・は激しく争った。
 <彼女>は皇后・・・と咸豊帝の弟で当時北京で外国との折衝に当たっていた恭親王・・・を味方に引き入れた。そして咸豊帝の棺を熱河から北京へ運ぶ途上でクーデターを発動し<顧命大臣達>を処刑・・・し権力を掌握した。
 北京帰還後<同治>は同治帝として即位し、皇后・・・は慈安皇太后、懿貴妃は慈禧皇・・・は紫禁城の東の宮殿に住んだため東太后、<彼女>は西の宮殿に住んだため西太后と呼ばれた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%AA%E5%90%8E

 湖南省出身の学者官僚で実践的な軍事経験がない曽国藩(Zeng Guofan)<(注9)>が、熱心な儒教的方針の下で軍を募り編成し、太平天国軍の前進を阻み始めた。

 (注9)1811〜72年。「太平天国の乱が勃発すると政府により団練<(民兵)>の組織を命ぜられた。清の正規軍である八旗は堕落しており太平軍に連戦連敗であったので、曽国藩は郷勇(義勇軍的な私兵部隊)を組織すると厳格な軍紀を適用した。これが後の湘軍の元となり、強さを発揮して太平天国軍を破った。・・・
 乱後、その功績と兵力の大きさにより、政府から警戒されるようになるが、湘軍を解散させることでこれを避ける。洋務運動にも参加し、洋式の兵器工場の設立・留学生の派遣などを行った。また後進の育成にも力を注ぎ、その幕下からは李鴻章・左宗棠など多くの人材を輩出した。
1868年、清朝に仕える漢民族としては初めて、地方官としては最高位に当たる直隷総督となった。・・・
 曽は文人としても一流であり、その作品は『曽文正公全集』・『曽文正公手書日記』に纏められている。また朱子学者としても著名であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E5%9B%BD%E8%97%A9

 この紛争が「包囲と絞首のグランド・ゲーム」になるとともに、太平天国の指導部は次第に間違いを犯すことが多くなり、南京周辺に押しこめられて行き、1937年<の南京事件>と全くもって同じ程度に身の毛がよだつ状況の下、1864年に帝国軍に最終的に陥落した。・・・
 <当時、清では、>太平天国のほか、同等の猛威をふるった大きな叛乱がいくつも起こっていた。・・・
 だから、<太平天国の乱は、>比較的単純であった米南北戦争にではなく、その混沌の程度は、要は、何でもありの、訳の分からないコンゴでの<現行>紛争に比肩すべきものだろう。
 <この本の>戦闘と交渉の長々しい繰り返しの中で、プラットは、珍しく脱線して、奇跡的に滅失しなかったHuang Shuhuaの物語を記している。
 <それは、>太平天国の首都が陥落した後、曽国藩の軍によって拉致された「南京から連れ去られた何千人もの若い女性達の一人」<の物語>だ。
 一人の兵士が自分の母親と3人の兄弟を殺すのを見せつけられた後、この16歳の少女は自分も殺してくれるように彼に乞うた。
 「しかし、彼は笑っただけだった」とHuangは記している。
 「「俺はお前が好きだ」と彼は言った」と。
 そして、<彼は、>彼女を縛り上げ、船に積んでこの兵士の故郷の村に連れ帰った。
 「この若い女性は、残された生涯を自分の家族全員を殺害した男の妻として生きなければならないという戦慄に直面することになるところだった」とプラットは記す。
 Huangは、とり急ぎ、彼女の物語を2片の紙に記し、一つは自分の体の中に隠し、もう一つは宿屋の壁に掲げた。
 「それから、彼女はこの男を殺す手段を見つけ<て実行し>、その上で首をつった。」」(D)

(続く)