太田述正コラム#5498(2012.5.23)
<第一回十字軍(その4)>(2012.9.7公開)

 彼らは、強固に要塞化されたニケーアの攻撃を続け、最終的にアレクシオスが間に入って休戦がなった。
 アンティオキアの町も陥落した。
 それは、何カ月もの攻囲と何千人もの十字軍従事者の死とその他大勢の逃亡者を出した後のことだった。<この本の>最後から2番目の章である、「十字軍が解決す(The Crusade Unravels)」は、エルサレムの奪取とブイヨンのゴドフリーのその新しい王としての擁立についての詳細な説明を提供する。
 ゴドフリーは、わずか一年に満たぬ間<エルサレムを>統治し、1100年の夏に死んだ。
 その後の何年かは、アンティオキア王(Prince)という名称を与えられたボエモンが、この十字軍の最も良く知られたヒーローとして出現した。
 彼の功業は、「ゲスタ・フランコルム(Gesta Francorum)」または「『フランクの功業(The Deeds of the Franks)』<(略称。前出)>に記されている。
 皇帝アレクシオスは、それとは対照的に、彼を悪党的で偽善的であると感じたところの、<互いに>言い争う十字軍従事者達によって、すぐに悪口を投げつけられるようになった。 
 ボエモンは、新たな「十字軍」を編成してコンスタンティノープルを攻撃しアレクシオスを追放しようとまでした。
 しかし、完璧に紳士的な(parfit gentil)騎士であるとの彼の評判に傷がつくことはなかったものの、彼は完全にそれらに失敗した。
 これに対し、アレクシオスの娘のアンナ・コムネナは、彼女の、しばしば信頼性のないところがあるけれど、有名な史書である、『アレクシオス1世伝』の中で、彼女の父親の名誉を回復しようと試みた。
 この名誉回復の作業は、注意深く研究されたこの<フランコパンの>本によって更に前進した。・・・」(A)

 (3)エピソード:人民十字軍

 「・・・その間、予期しないことが起こった。
 1095年から96年にかけて、カリスマ的な説教者である隠棲者ペテロ(Peter the Hermit)<(注19)>が、法王の許可なしに、自分自身のお供を集め、現在では民衆の十字軍(People’s Crusade)として知られるところのものを開始したのだ。

 (注19)〜1115年。フランスのアミアン(Amiens)の僧侶。
http://en.wikipedia.org/wiki/Peter_the_Hermit

 刺激されて熱狂した、この庶民達からなる混沌とした群衆は、欧州を横切り、反ユダヤ主義を説き、ユダヤ人の人々を殺すとともに、彼らの食料や補給品の渇望に基づき、田舎を荒廃させた。
 どうやってか、これらの略奪的な熱狂者達で残った者達は、小アジアに到達した。
 そこで彼らは、暴虐的にニケーア近くの小さい城を侵略したが、復讐心あるトルコ人の軍によって今度は彼らが粉砕された。
 皮肉にも、これらの狂信的キリスト教徒達の多くが、自分達のみじめな人生を救うために、素早くイスラム教に改宗した。・・・」(A)

 (4)フランコパンへの賛辞

 「・・・私は、アレクシオスが、トゥールーズのレイモンによる、バルカン半島を横切る、極め付きに困難な路程であるところの、クロアティアとダルマティアを通り抜ける行進、の背後にいた、という<フランコパンの>観念に接し、このことに特に驚いた。
 フランコパンは、これを、アレクシオスの、セルヴィアの支配者たるコンスタンティン・ボディン(Constantine Bodin)との現在進行形の紛争と関連付ける。

 (注20)1072〜1108年。セルヴィアの王であった父のもとに生まれた。セルヴィアの王になる前に、ブルガリアの皇帝に擁立されたことがある。1096年から97年にかけての冬、トゥールズのレイモン率いる十字軍はボディンにスクタリ(Scutari)で会い、十字軍従事者達は温かく接受され、歓待された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Constantine_Bodin
 スクタリは各所にあるが、ここでは、現在のアルバニアにおける最も古く最も歴史のある町の一つのShkoderのことではないか。
http://en.wikipedia.org/wiki/Shkod%C3%ABr

 これも、<フランコパンによる>仮説的な試みではあるが、<レイモンによる、この>不可解な意思決定について、<この仮説が正しいとすれば、>それなりに合点がいくのだ。・・・
 サー・スティーヴン・ランシマン(Sir Steven Runciman)<(注21)>が、ボスフォラスから見た第一次十字軍についての見解を我々に与えてくれてから60年経つが、それが<フランコパンによって、>学識とセンスの良さでもって改訂されたことはうれしいことだ。・・・」(D)

 (注21)1903〜2000年。ケンブリッジ大卒の英国の歴史家。著書、A History of the Crusades (1951〜54年)で知られる。イートン校時代、ジョージ・オーウェルの親友で二人ともオルダス・ハックスレーからフランス語を学んだ。莫大な遺産相続の後は、世界各地を旅行する人生を送った。その間、イスタンブール大学の教授をしたこともあり、その頃から十字軍の研究を始めた。ラテン語、古典ギリシャ語はもとより、ロシア語を含む欧州各国語に通じていたほか、アラビア語、トルコ語、ペルシャ語、ヘブライ語、シリア語(Syriac)、アルメニア語、グルジア語を読むことができた。また、オカルト好きで、清朝最後の皇帝の溥儀とピアノの連弾をし、まだ王制時代のエジプトのファウド王とタロットカードで遊んだと伝えられる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Steven_Runciman

3 終わりに

 十字軍の仕掛け人はアレクシオスであった、というフランコパンの説は面白いし、頷けるものがあります。
 アレクシオスが人種的にどうであったのか、彼の英語ウィキペディアを見ても出てきませんが、彼の名前がギリシャ・アルファベットで一義的に表示されている(このウィキペディア)を見ても、ビザンツ帝国がギリシャ化していたことが窺えます。
 そのアレクシオスの事績といい、彼の娘が世界初の女性歴史家となったことといい、まだこの時期までは広義のギリシャ人が「世界的」な活躍をしていたということを改めて感じました。
 ご承知のように、ビザンツ帝国がオスマントルコに1453年に滅ぼされことによって、広義のギリシャ人の劣化を始まり、ユーロ危機の元凶にまで落ちぶれた現在に至っているというわけです。
 もう一つ、改めて感じたのは、イギリスのすごさです。
 まず、フランコパンの父親のような、貴種を含めた多種多様な、飛び切り優秀な人・・その子孫もフランコパン自身のように飛び切り優秀である可能性が高い・・も含めた外国人が、迫害を逃れ、或いは機会を求めてイギリスに次々に流入してきていることであり、他方で、ランシマンのような、貴種・・父親が子爵(ランシマンの上掲ウィキペディア)・・を含めた、飛び切り優秀な「純国産」人が次々に輩出してきていることです。

(完)