太田述正コラム#5434(2012.4.21)
<山県有朋と利益線>(2012.8.6公開)

1 始めに

 引き続き、XXXXさん提供の史料、村中朋之「山県有朋の「利益線」概念--その源泉と必然性」(『軍事史学 42巻一号』 錦正社 2006年 収録)のさわりのご紹介とそれに対する私のコメントをお届けします。

 なお、村中は、この論考執筆当時は国学院大学大学院在籍(115)、現在、日本大学大学院総合社会情報研究科在籍です。
http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf12/12-221-232-Muranaka.pdf

2 山県有朋と利益線

 「1889・・・年12月24日、10月に総辞職した黒田清隆内閣の内務大臣であった山県有朋に組閣の大命が降下、第一次山県内閣は発足した。翌年3月、山形は『外交政略論』を政府部内に配布し、・・・「利益線」<(コラム#4085、4406、4466)>という概念を用い、朝鮮への国防範囲の拡大を唱えた。・・・山県の「利益線」概念は、以後の日本の外交政策、すなわちアジアへの権勢拡大の端緒となったとともに、従来の日本の国防戦略の転換、すなわち侵攻する敵を自国の領土内で撃破するという「守勢戦略」からの転換の契機となった。
 この「利益線」は、山県自身により創りだされた概念ではない。これは山県が・・・1888・・・年の訪欧時に、ローレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz Von Stein 1815〜1890)<(注1)(コラム#4776)>から教授された「利益疆域」を基に、井上毅の助力を得て作られたものであることが梅渓昇や加藤陽子らにより明らかにされている。・・・

 (注1)1815〜90年。「1882年に憲法事情研究のためにヨーロッパを訪れていた伊藤博文は、ウィーンのシュタインを訪問して2ヶ月間にわたってシュタイン宅で国家学の講義を受けた。・・・日本が採るべき立憲体制について・・・プロイセン(ドイツ)式の憲法を薦めた・・・。ただ、シュタイン自身はドイツの体制には批判的であり、日本の国情・歴史を分析した上で敢えてドイツ憲法を薦め<たもの>。・・・また、カール・マルクスは1842年のシュタインの著作『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』から社会主義・共産主義思想を学び、私淑しながらも自らの思索を深めていった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3

 山県の国制観は、立憲制ながら可能な限り天皇の大権を留保させるものとし、それを行政権の優位性により担保するというものであった。
 対してシュタインは・・・人治主義から立憲制という法治主義への移行プロセスとして、君主からの<、>・・・国家の思想<であるところの、>・・・立法権の独立に続き・・・国家の行為である・・・行政権も<君主から独立させる>べしとして・・・いた。・・・
 山県は<、1888>年の建議『軍事意見書』冒頭において・・・<英自治領カナダにおける大陸間横断鉄道の敷設とロシアにおけるシベリア鉄道の敷設に言及しつつ、>英露両国の極東進出の手段を分析した。・・・
 <そして、アフガニスタンにおいて両国が衝突する可能性があるとした上で、>朝鮮はロシアにとってウラジオストックの防御線かつ冬季に結氷する同港に代わる進出拠点であり、イギリスにとってはロシアの南下に対する防御線かつ香港に代わるウラジオストックへの侵攻拠点という戦略的意義があ<るとした。>
 朝鮮を巡り英露が衝突した場合における日本の立場について・・・中立を選択した場合・・・<に、日本が種々の国際法上の義務を遂行するためにも、日本の>軍備拡充の必要性を唱えた。・・・
 山県は、<1888>年の訪欧時に<このような>自らの世界観と国防観につきシュタインに意見を乞うた。それに対するシュタインの答え<であるが、>・・・例え日本の主権の及ばぬ領域であっても、その領域の動向が日本の安全にとって脅威となる場合は、自らその領域を「利益疆城」として兵力を以て防衛しなければならないという新たな国防概念を示した。そしてそれは「外交上の干渉」と並び「軍事上の干渉」として当時の国際法が認めていると述べたのである。・・・<その>日本の「利益疆城」は・・・朝鮮<であるとし、>・・・「利益疆城」とは、それを自らの支配下に置くことではなく、また、それを搾取の対象とするものでもない。日本にとっての「利益疆城」とは、あくまでも「朝鮮の中立」であり、それを犯す者は敵国として日本自らの手により断固排除すべしと主張したのみならず、そのためには日本は自らの兵力を朝鮮に駐屯させる必要があるとさえ主張した。」(76、79〜83、85〜86)

→上述のように、山県の国制(国のかたち)観は、私の言う、横井小楠コンセンサス(英国模範/反露)からズレていたため、同コンセンサスを共有していた者からすれば、英露両国のうち、英国に与すべきは当然であるというのに、山県は、東アジアにおいて英露両国に対して中立的な安全保障政策を追求しようとしたわけです。
 シュタインは、彼が個人教授をした相手の伊藤博文が横井小楠コンセンサスを共有していること(『伊藤博文 知の政治家』シリーズ、就中そのうちコラム#4774、4776、4778参照)を知っていたはずである上、シュタイン自身が自由民主主義志向であったことから、日本が英露両国に対して中立的な安全保障政策を追求しようとするのは妥当ではない、と山県を窘めなければならなかったというのに、それをやらなかったのはいかがなものか、と思います。
 それはそれとして、シュタインが、安全保障上の利益線確保の必要性を山県に伝授したことの重要性はどれほど強調してもしきれない、と言うべきでしょう。
 やがて、これは、専制的勢力を仮想敵として人間主義的に利益線を確保する、という新たなコンセンサスの日本の指導層内での確立、すなわち、日本型帝国主義の生誕、をもたらしただけではなく、第二次世界大戦後、この日本型帝国主義を、ジョージ・ケナンが剽窃して(コラム#5208)、(全球的に米軍基地を展開するとともに、米国の与国に対して持ち出しで政治経済面の梃入れを行うという)米帝国主義マークIIの生誕をもたらしたからです。