太田述正コラム#5426(2012.4.17)
<加藤高明と外務省の原罪(その1)>(2012.8.2公開)

1 始めに

 XXXXさんがまたまたいくつか史料を送ってくれていたところ、最初に目を通していた、平間洋一さんの論考である、「対華二十一ヶ条<(21カ条)>の要求と日英関係--シンガポール駐屯インド兵の叛乱を軸として--」(『史学雑誌100号』 山川出版社 1991年 収録)が気になりつつ、一神教の世界の泥沼に足をとられて放置してきたけれど、気持ちを奮い立たせて、この論考のさわりを紹介することで、旧軍と比較して、外務省がいかに、日本の敗戦と現在の日本の属国状況に責任があるか、を改めて考える手がかりにしたいと思います。
 なお、この論考は、彼が元海上自衛官であったためか、旧海軍贔屓がいささか気になるところの、平間さんの一連の著書や論考の中で、だからこそ、結果として一番私が高く評価できたものとなっている、とまことに僭越ながら、申し上げておきたいと思います。

2 旧軍のすばらしさ

 「<時まさに第一次世界大戦の真っただ中であったが、日本政府が発出した、>対華二十一ヶ条中の第5項が知らされなかったと、駐日<英>大使グリーン(Conygham Greene)が加藤<高明>外相に激しく抗議した5日後の1915年2月15日午後、シンガポール郊外にあるアレキサンドラ兵営駐屯の<英軍の>インド兵が暴動を起こした。インド兵の一部・・・は弾薬庫から武器弾薬を奪い、・・・ドイツ人捕虜収容所<も>襲撃、所長や衛兵を殺害し武器を奪いドイツ人捕虜に手渡した。当時収容所には・・・<ドイツ艦艇の>乗員、および・・・シンガポール<に>在住<していた>ドイツ人約300人が収容されていたが、<その一部が>脱走<し>、・・・逮捕され<なかった>ものは船で中立国オランダ領のスマトラに逃走した。また他のインド兵の一隊は市街に進出し、白人男女を手当たり次第に殺傷<したところ、>・・・宗教を異にした<(=イスラム教徒でない)>インド兵および白人義勇兵など・・・の防戦により撃退されたが、イギリス人隊長官邸が包囲襲撃された。
 この暴動に参加したインド兵は・・・合計1009名・・・といわれたが、当時はシンガポールのイギリス人部隊の殆どがヨーロッパ戦線に移動した後であったため、警備兵力は・・・790名しかなく、また海軍兵力も軽巡洋艦カドマス(Cadomas)しか在泊していなかった。・・・<そして、>白人市民40余名が殺害されたためシンガポール在住の白人は港内の商船に避難した。このような状況に総督と支那艦隊司令長官ジェラム(Sir Thomasu Martyn Jerram)中将<(注1)>は、在シンガポール日本領事藤井実<(注2)>とイギリス支那艦隊司令部派遣幕僚の荒城二郎少佐(のち中将)<(注3)>に、義勇兵の派出と日本海軍艦艇の来援を求めた。この申し出に藤井領事は日新ゴム支配人予備役陸軍中尉和田義正を指揮官として、・・・16日<から>17日<にかけて>・・・義勇兵<186>名を・・・派出し・・・・21日<まで>市内の警備に当たらせた。

 (注1)1858〜1933年。支那艦隊司令長官(Commander-in-Chief, China Station):1913〜15年。最終階級は大将。1917年退役。(1871年に英海軍に入っているので、恐らくたたき上げだろう。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Martyn_Jerram
 (注2)一高・東大法(1905年卒)。吉田茂と同期だが実際の入省は1年後。英国勤務を経て1929年外務省退職。財団法人日米協会の役員等。1939年、ひそかに駐日英国大使館員達と接触して、 どういう形にすれば日本と友好関係が維持できるか打診し、 そのことを報告書にして平沼内閣に提出した。
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi25.2.html
http://www.archives.go.jp/about/publication/archives/pdf/acv_29_4.pdf
 なお、「1902年の東大運動会で,100m競走に10秒24の驚異的な記録を出した。このとき初めて田中館愛橘考案の電気計測が用いられ,寺田寅彦が助手を務めたが,現在ではどこかに計時の誤りがあったとみられている。さらに06年の運動会では棒高跳びに3m90cmを記録した。これらの記録は東大総長から海外へ通報され,アメリカの運動年鑑に世界記録として報じられた。陸上万能で走幅跳びなどにも好記録を残した」
http://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E4%BA%95%E5%AE%9F
 (注3)1880〜1952年。海兵29期。海大。米内光政と同期で親友。「第一遣外艦隊司令官<の時の>1927年の南京事件、漢口事件・・・では、海軍側の現地責任者として、難局に冷静に対処した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%9F%8E%E4%BA%8C%E9%83%8E

→要請を受けた翌日に早くも義勇兵を派出できたとは、当時の日本人の外地社会がいかに統制がとれていて、いかに安全保障意識が高かったか、分かりますが、それは、藤井総領事の力量の賜物でもあったと思われます。(太田)

 一方、・・・暴動発生を報ずる荒城少佐の・・・電報が、香港に向け航行中の二等巡洋艦対馬乗艦の第三艦隊司令官土屋金光少将<(注4)に届くと、彼>・・・は直ちに対馬をシンガポールに向けて反転させるとともに、指揮下の二等巡洋艦音羽に・・・シンガポール<に>急航<し>英国支那艦隊司令長官及<び藤井>領事<と>協議<し>臨機<の>処置<を>執<るべし>・・・<という>命令を発した。・・・

 (注4)日露戦争当時に第三駆逐隊司令(中佐)であった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%81%E3%82%A4_(%E6%B0%B4%E9%9B%B7%E8%89%87)
、ということくらいしか分からなかった。何かご存じの方は教えていただきたい。

→ここには、海軍省や軍令部などは、全く登場しません。
 いくら第一次世界大戦参戦中であったとはいえ、実に大きな裁量権が現地部隊に与えられていたものだと思います。(太田)

 <17日午前にフランスの巡洋艦モンカルムが入港し、陸戦隊190名を揚陸させたのに続き、>音羽は・・・17日・・・午後・・・シンガポールに入港<すると、>・・・直ちにイギリス支那艦隊司令長官の要請にもとづき、・・・陸戦隊・・・82名・・・を揚陸、・・・18日・・・にはカドマスの陸戦隊とともに暴動の本拠地であるアレキサンドラ兵営を攻撃し、抵抗を受けることなく・・・占領、以後残余の暴徒を追跡し12名のインド兵を捕らえイギリス軍に引き渡した。続いて、・・・19日・・・に対馬が入港するとゼラム(ママ)中将が直ちに来訪し、陸戦隊の増派を依頼したため、土屋司令官は・・・総勢156名の音羽・対馬連合陸戦隊を派出した。18日にはロシア仮想巡洋艦アリエール(Ariel)の陸戦隊30名が追加され、

→第一次世界大戦中だが、米国は1917年まで参戦していないので、シンガポールでは、英仏日露の4連合国の陸戦隊が、対ドイツを念頭に置きつつ、叛乱インド兵とあいまみえた、というわけです。(太田)

20日にはラングーンから600人のイギリス兵が到着し、これらの兵力の到着により反乱兵士はジャングルなどに逃亡、・・・25日には治安もほぼ回復し<日本の>陸戦隊は帰艦した。本暴動の原因をイギリスは進級に関する一部の不平と公表したが、藤井領事はイギリスが回教発祥地であるトルコに宣戦したのに反発した回教徒のインド兵を・・・ドイツ人が自己の逃走のために利用したと報告している。

→日本側の情勢分析の方が的確であったように思われます。
 藤井領事の力量と土屋司令官の力量、及び双方の連絡調整の密度の高さ、ないし、藤井領事の在留邦人掌握の確かさ(義勇兵からの情報収集力)、が推し量れます。(太田)

 なお、陸戦隊は土屋司令官の「攻撃ヲ採ルヲ必要トスル場合アルベシト雖、仏露兵ノ振合ヲモ参酌シ主ニ衛兵ヲ援助スル位置ニ立ツコトニ注意シ、吾独リ暴徒ニ向テ猛進スルコトハ成ルベク之ヲ見合ハスヲ可トス。右ハ印度人ノ恨ヲ我兵ノミニ招キ、延イテ我商業上ノ不利ヲ来スガ如キコトナカラシメントスル考慮ニ基ケル」ものなりとの訓示を守り、1名も殺傷しなかったため暴徒は「安心シテ我軍ニ投降シ」た。しかし、イギリス軍は「暴徒カ武装ナキ普通人ヲ殺傷セル態度ニ酬インカ為、当方ニ於テモ見当リ次第暴徒を射殺シテ仮借セサル様一般ニ訓令」したため約50名のインド兵を殺害し、さらに反乱首謀者など32名の死刑執行を・・・4回にわたって公衆の面前で実施するなど極めて残酷な措置を取った。このため「回教徒間一般ニ恐怖ト悪感トヲ醸成シ一般回教徒間ニハ依然密ニ(中略)英国官憲ノ処置ニ憤慨シ恐ルヘキ不平ノ暗流」を生んだ。」(65〜67)

→土屋司令官の政治的感覚は讃嘆に値します。
 旧海軍将官は、何と素晴らしかったのでしょうか。
 しかし、土屋司令官も、そしてまた藤井領事も、それぞれ、海軍、外務省が使いこなせなかったようです。
 (両名ともウィキペディアはないし、藤井領事は、その経歴から分かるように、1929年に早くも外務省を退職しています。なお、その経歴から想像できることですが、彼が外務省に入るのをわざわざ1年遅らせたのは、陸上競技を続けたかったからではないでしょうか。)(太田)

(続く)