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太田述正コラム#5424(2012.4.16)
<イスラム教の成立(その3)>(2012.8.1公開)

 (3)ササン朝ペルシャ/ローマ帝国とイスラム

 「・・・ホランドは、古代末期は没落と滅亡の時代ではなかったのであって、エネルギーと創意工夫性の時代であって、地中海周辺のローマとその東のササン朝の二つの帝国、及びこの二つを連接していたところの、「聖なる地」の宗教的かつ文化的坩堝、という文脈の下でアラブ世界とムハンマドの生涯が設定されたこと、を検証する。
 ホランドは、アラブ世界に影響を与えた可能性があり、更にイスラム教の生誕地であるメッカとメディナに影響を与えた可能性のあるところの、ペルシャとローマの諸システムの、それぞれの中における、主要な出来事、場所、観念、そして決定を取り上げる。・・・ 
 9世紀には、「神の代理人(Deputy)として誰かが統治する余地などないところの」、そしてそこから、「その他の無数の人々がイスラム教を鍛えあげて造るという重大な役割を演じる」余地などないところの、「イスラムの一バージョンの始まり」が受け容れられ、それが爾来プレゼンスを維持し続けてきたことは、ホランドのテーゼ<が打ち出されたこの本>を、イスラム教徒たる読者が読んだならば、抵抗感を覚えることが避けられないものにした。・・・」(C)

 「・・・ペルシャに関しては、火を崇拝するゾロアスター教の僧侶達が、機会主義的に、神の言葉であるマスラ(mathra)の最初の書き換え(transcription)を行い、それまで全権を持ってきた国王の家来ではなく、同格のパートナーであると自分達自身を昇格(promote)させたことが、<ホランドによって、>我々に紹介される。
 <そして、>最終的に、ローマに関し、利口なキリスト教神学者達が、地上と天上の諸王国の利害の間に完全な折り合いをつけ、「一人の皇帝、一人の神」という蠱惑的呪文を、次第に聞き分けがよくなっていった皇帝達に提供するのを、我々は目撃させられる。
 しかし、ホランドが指摘するように、この見事さと創意工夫性の全てがもたらしたところの、長らく希求されていた確実性<、をレコードのA面とすれば、そのレコードの>のB面は、ローマとペルシャの両世界における宗教的地平の不可逆的な縮減だったのだ。
 ローマ帝国では、正統なるローマ帝国的キリスト教の何たるかについての、次第に生硬さが増大する緒元(parameters)に収まり切らない信条を抱く人々は、自分達が次第に募る非寛容と迫害の対象となって行ったことに気付いた。
 6世紀には、いかなる、現実ないしは想像上の宗教的異議をも受け容れられないという沈鬱な状況が、何十年にもわたったところの、ローマとペルシャ諸帝国との間での、資源を枯渇させる、断続的な戦争によって一層悪化した。
 <そして、>同時代人にとっては突然湧き出てきたように思えたところの、新しい有力な力<であったイスラム教勢力>が、その結果として生じた力の真空に容赦なく付け入ることになったのだ。
ローマやペルシャの教養人の眼からすれば、アラブ人など、文明化した世界の辺境に思案に暮れて佇んでいるところの、途方もない(howling)砂漠と荒野出身の、どこの馬の骨とも知れない輩だった。
 ところが、1世紀経つか経たないうちに、アラブ人の諸軍勢は、東ローマ帝国の多くの部分を征服することに成功するとともに、ペルシャの完全な崩壊をもたらしつつあった。
 <彼らが征服したのは、>イラン、イラク、シリア、エジプト、そしてレヴァントを含む広大な地域だった。
 <このような、>彼らの成功の秘密は一体何だったのだろうか。
 これらの騒々しい出来事群を拾い集めたところの、2世紀後のアラブの学者達は、その答えを知っていた。
 それは、偉大なる預言者ムハンマドの教えの中に潜んでいたのだ。
 彼の聖なる諸啓示は、アラブ人に「以前の諸主人達と顔と顔を突き合わせることに勇気と本当の自信」を与えたのだ。・・・
 ・・・ローマ人達とペルシャ人達は、アラブ人侵攻者達の神政的諸声明の中の多くのものを<自分達は既に>良く知っている、と思ったことだろう。
 というのも、彼らが耳にしたのは、彼ら自身の言葉群や観念群に、異なった時代と観衆のために、手が加えられ(reworked)包装し直した(repackaged)もの<に他ならなかった>からだ。・・・
 ・・・初期のイスラム教にとっては、ペルシャのゾロアスター教、キリスト教、ユダヤ教、そしてグノーシス主義はすべて共通通貨的なものであって、その全てから、同教は、自由に拝借し、<こうして拝借したものを、>宗教的かつ文化的坩堝の中で鍛え上げたのだ。・・・」(B)

 「・・・540年代に古代世界を席巻した疫病<(注10)>の惨劇が、既存の両帝国を致命的に弱体化させたことも<この本の中で>暴露される。

 (注10)ユスティニアヌスの疫病(Plague of Justinian。541〜542年)。首都コンスタンティノープルを含む、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)で猖獗を極めた。14世紀の欧州を襲った黒死病同様、ペストによるもの。最盛期にはコンスタンティノープルだけで、毎日5,000人が死亡した。死者は東地中海世界の4分の1、計2,500万人にのぼったと見られている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Plague_of_Justinian

 <実に、東地中海世界の>都市人口の半分前後が亡くなったのだ。
 というわけで、「コンスタンティノープルには黒死病の最も暗黒なる恐怖に匹敵するところの、疫病(死した人を投げ込む)立坑群があった。
 死体群は<そこへ>投げ入れられ、文字通り「神のワイン圧搾」によって踏み固められ、遺体群は敷き藁のようになった(mulched up)ため、[新しい]遺体を投げ入れると、それはカスタードに梅の実(plum stone)を沈めた場合のように沈んだ」とホランドは言う。・・・」(E)

 「・・・近東の総人口の3分の1を根絶やしにした6世紀の諸疫病・・ただし、砂漠の遊牧民<たるアラブ人>は、その影響を受けなかったように見える・・、シリアの砂漠にいたキリスト教神秘主義者達(mystics)、ペルシャ帝国を弱体化した諸叛乱、何十年も続いた東ローマ帝国によって起こされた諸戦争、そして、アラビアへの<ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教等の>諸宗派の普及、の全てがこの物語に一定の役割を演じたのだ。・・・」(H)

(続く)

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