太田述正コラム#5422(2012.4.15)
<イスラム教の成立(その2)>(2012.7.31公開)

 (2)ムハンマドとコーラン

 「・・・ホランドは、この本をサルマン・ラシュディー<(コラム#174、303、1069、4196、4259、4261、4284、4321)>の驚くべき引用から始める。
 「福音主義者達に与えられているところの、キリストの生涯に関して与えられている権限の大きさはかなり小さい<ものの、分かっていないことは少なくない>。
 他方、ムハンマドの生涯については、多かれ少なかれ、我々はあらゆることを知っている。
 我々は、どこに彼が住んだか、彼の経済状況はどうだったか、彼が誰と恋に陥ったかを知っている。
 <また、>我々は、当時の政治状況と社会経済事情について極めて多くのことを知っている。・・・」(G)

 「・・・実際、預言者<ムハンマド>の実在を含め、<このような>伝統的な解説に沿ったところの、若干の事柄について、典拠となる証拠はたくさんある。
 預言者の記録された死の直後の時点から、その当時の文献的証拠が示すところによれば、自分達の<イスラム暦による>年号を刻み始めたことを我々は知っている。
 <また、>コーランの中に、コーランが預言者の生きていた間に作りだされたことの証拠がある。
 <コーランの>30章(sura<s=chapter>)1節(<Ayah=>verse)
< http://en.wikipedia.org/wiki/Quran >
は、614年にパレスティナがペルシャのホスロー2世(Khusrow II)<(注6)>の手に落ちたことを仄めかしている。

 (注6)?〜628年。国王:590〜628年。ササン朝ペルシャ[(パルティア同様、現在のバグダード付近のクテシフォン(Ctesiphon)に首都があった。)]の第22代国王。
http://en.wikipedia.org/wiki/Khosrau_II
http://en.wikipedia.org/wiki/Ctesiphon ([]内)

 <だから、>19世紀に、エルネスト・ルナン(Ernest Renan)<(注7)>が、「イスラム教は、他の諸宗教の起源をゆらす神秘の只中に生まれたのではなく、完全な歴史の光の中で生まれた」と主張したことには幾ばくかの根拠があるのだ。

 (注7)1823〜92年。「フランスの宗教史家、思想家。近代合理主義的な観点によって書かれたイエス・キリストの伝記『イエス伝』の著者。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%B3

 しかし、若干のギャップと不確定性があり、それらは信心深い人々の若干によって精力的に抑圧されてきた。
 ハディス<(コラム#205、387、389、1069、1081、1150、4068、4220、5192、5196、5202、5206)>が書き留められたのは何十年、時には何世紀も後であり、数と細かさが増大して行った。
 預言者が語ったことには法的な力があったので、有用なものがまさに<新たに>見つかった、と表明したい気になりがちだった。
 本当のものと紛い物とを選び分けるには何世紀もかかったわけだが、例えばヨゼフ・シャハト(Joseph Schacht)<(注8)>のような、若干の学者達は、「真正な情報の核がもともとは存在した」という観念は「放棄しなければならない」と宣言したものだ。

 (注8)1902〜69年。ドイツ系英国人。米コロンビア大学でアラビア語とイスラム教の教授を務めた。イスラム法の権威。
http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Schacht

 預言者本人に関しては、諸伝記において、増量されて行く傾向があり、彼の生涯との直接的につながるものとしては、一定の時間が経った後からの口伝の物語があるだけなのだ。・・・」(F)

 「・・・アラビア語でのムハンマドへの最初の言及は、彼の死後60年近く経ってからのことであり、年代付きでの彼の生涯に関する最初の言及は彼の死の200年後のことであるし、コーラン以外でのメッカ(Mecca)への最初の言及は彼の死の100年後のことであるし、しかもそれは<何とヒジャース地方ではなく、現在の>イラクに位置していた。・・・」(H)

 「・・・ホランドが指摘するように、現存している最初のムハンマドの伝記は9世紀初頭のものであって、彼の生きた時代・・伝統的に紀元570〜632年とされている・・からほとんど2世紀後につくられたものだ。
 それとは対照的だが、イエスの生涯についての資料源は、対象となっている出来事群にはるかに近い時期につくられたものだ。
 パウロの書簡群はおおむね紀元50年代に書かれたし、梗概的な諸福音書ができたのは、通常、紀元1世紀の60年代末から80年代末であるとされている。
 実際、・・・最近の多数の研究は、福音書中の記述に歴史的信頼性があることについて、説得力ある説明をしている。
 ラシュディは、どうも間違っているようなのだ。・・・」(G)

 「・・・ホランドは、ムハンマドが実在の人物ではなかったとまでは言っていない。
 ハールーン・アッ=ラシード(Haroun al-Rashid)<(注9)>が支那から大西洋にまでに及ぶ帝国のカリフであって、『千夜一夜物語』が編纂されつつあったところの、800年代に<、初めて、ムハンマドのについての>説明がなされた、ということを、彼は単に言っているだけだ。

 (注9)766〜809年。カリフ:786〜809年。「アッバース朝第5代カリフ・・・3度にわたって行われた東ローマ帝国に対する親征でいずれも勝利を収め、アッバース朝の勢力は最盛期を迎えた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%83%EF%BC%9D%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%89

 細部まで信憑性があるのか、或いは、預言者の生涯でもっと重要な諸瞬間の若干について信憑性があるのか、を検証するのは不可能だ、というのだ。
 同じことがコーランについても言える、というのだ。・・・
 <しかし、>ホランドは、口承的伝統の価値の重視の度合いが十分ではないのではないか。
 この<口承という>経路をたどってコーランは受容され、初期において保持された、とされているのだから。(ちなみに、ムハンマドは文盲であったと多数の人々によって信じられてきたところだ。)・・・」(A)
 
(続く)