太田述正コラム#5418(2012.4.13)
<黙示録の秘密(その11)>(2007.7.29公開)

 なお、念のためですが、釈迦やイエスの奇跡の事績は、もちろん事実であるはずがないのであって、それぞれ、(釈迦の場合はその意図に反して)宗教集団が形成されて行く過程で、宗祖に係る様々な伝説が創造され、経典や聖書に記述されて行った、ということでしょう。

 イエスの言動のうちの終末論的部分を劇画的に誇張したとも言える「黙示録」が、後の欧州、ひいては世界に、どれほどの惨禍をもたらしたかは、以前の「キリスト教・合理論哲学・全体主義」の正続シリーズ(コラム#1865、1866、3212、3216、3218)に譲ります。

3 先進国で崩壊しつつあるキリスト教・・終わりに代えて

 こんなキリスト教が、キリスト教が生まれた頃の世界にある意味で似ているところの、現在の発展途上世界のアフリカや支那では依然として信者を増やしてはいるものの、先進世界では、日本は別格として、(もともと自然宗教志向であったイギリスを始めとする真正アングロサクソン諸国もまた別として、)欧州で、今や消滅しつつあるのは当然でしょう。
 先進世界の中で例外的にキリスト教が衰えを見せていなかった米国においても、ここのところ急速に事態が変わってきました。
 そこで、現在の米国のキリスト教状況を実感させるところの、熱烈かつ「まとも」な一キリスト教徒によるコラムを紹介することにしましょう。

 「・・・キリスト教の諸教義は一体何だったのか。
 <それは、>引き続く何世代にもわたって戦争、異端審問、ポグロム、宗教改革、そして反宗教改革をもたらしたところの、政治と権力と融合した、超自然的な諸主張ではない。

→ここは、(前述したところですが、)誤りであり、(実在したとすれば、)イエス本人の責任です。(太田)

 イエスの諸教義は、実践的諸戒律(practical commandments)だったのであり、それらは、彼が語った、単純で、彼が行ったあらゆることにおいて例示されていたところの、物語群からただちに飛び出た、真に急進的なる諸観念だった。
 単に互いに愛せではなく敵を愛し害を与える者を愛せ、あらゆる物質的富を放棄せよ、全ての事物の背後にある神聖な存在(ineffable Being)を愛せ、そしてこの存在が、実際に、・・そのイメージに沿って人がつくられたところの・・最も真実なる父(Father)であることを知れ。

→(繰り返しますが、)利他主義は普通の人には実践できるわけがないし、人格神の観念だって陳腐この上もないものがあります。(太田)

 就中、他者に対する権力を放棄せよ、何となれば、権力は、それが効果的であるためには、究極的には暴力による威嚇を必要とし、暴力はイエスの教えの聖心(sacred heart)にあるところの、<イエスの>他の全ての人に係る全面的受容と愛と両立することができないからだ。

→ここは、(前述したところから、)私のイエス理解とは異なります。(太田)

 だからこそ、イエスは、その最後の非政治的行為において、裁判で自分の無実の弁明を決してせず、自分の磔刑に抗わず、自分の両手に釘を打ちつける人達に向かって赦しを与え、彼らを愛しさえしたのだ。・・・

 カトリック教会の階統制は、法王パウロ6世の1968年の避妊薬の一方的禁止によって米国の大衆に対して権威の多くを失った。
 しかし、この10年間で、<カトリック教会は、>残っていた道徳的権威の断片すら蒸発させてしまった。
 同教会の階統制が、無数の若者達や子供達を虐待し強姦する国際的陰謀を可能にした上、それを隠蔽したことが露呈した。
 私は、同教会の権威に対する、これ以上大きな告発はありえないと思うけれど、今に至っても、<同教会は、>責任を認め指導部全員が辞任すべきところ、それを拒否している。
 それどころか、彼らは、自分達以外の人々の性的生活のこととか、神父抜きで執り行われる結婚ができるのは誰かとか、誰が健康保険で受胎調整について支払うべきか、といった<些末な>ことにこだわり続けている。
 <その一方で、より重要であるところの、>不平等、貧困、そして何と9.11同時多発テロ以降米国政府によって制度化された拷問、といった諸問題が彼らの公的関心を呼ぶことはないのだ。

→以上のカトリック教会批判には全面的に同意です。(太田)

 これに対し、主流のプロテスタントの諸教会は、長らく宗教的近代化を推進してきたが、この50年間、急速に衰亡してきた。

→以前から私は、宗教改革(プロテスタント運動)とは、要するに世俗化(脱キリスト教)に向けての動きであったと考えている旨申し上げて来ました。
 このことが顕在化してくるのに、できそこないのアングロサクソンの社会である米国ではいささか時間がかかった、というだけのことだと思うのです。(太田)

 この真空状況に福音主義(evangelical)<(=原理主義的(太田))>プロテスタンティズムが入り込んできたが、それは、自身、深刻な欠陥を有する。
 ・・・多くの郊外の福音主義者達は、繁栄の福音(gospel)を抱懐しており、キリスト教徒としての人生を送れば成功し、金持ちになると教える。

→単純明快な現世利益追求ってやつですね。(太田)

 他の福音主義者達は、生硬な聖書直解主義(biblical literalism)を擁護し、列聖された諸福音書は、イエスの時(ministry)より何十年も後に書かれ、誤りを免れない記憶に基づいて語られた諸物語の写しの写しである、ということを紛れの余地なく示したところの、1世紀半に及ぶ学究的研究に頑固に背を向ける。
 更に他の福音主義者達は、地球はできてからわずか6,000年しか経っていないと固執的に主張し、理性と科学の光に照らして我々が知っているところのものを、にべもなく真実でない、とする。
 そして、世論調査でテロ容疑者達を拷問にかけることに最も支持を与えている米国人の集団は何だろうか? 福音主義的キリスト教徒達だ。・・・

→ここまでの、福音主義キリスト教批判についても全面的に同意です。(太田)

 <考えてもみよ、>イエスは同性愛や堕胎について語ったことがないし、彼の結婚についての唯一の発言は、(米国のキリスト教徒の間では日常茶飯事だが)離婚に対する非難と姦淫への赦しだった。
 家族については?
 彼は、10代の時に公然と両親を捨て、彼の追従者達に、私につき従いたいのなら自分達の両親も捨てよと伝えた。
 セックスについてはどうか。
 イエスは、独身主義者(celibate)であり、彼の追従者達と共に、切迫したこの世の終わりを予期しており、<このような状況下において、>子供をつくることは完全に不適切だった。・・・

→福音主義キリスト教への皮肉としては秀逸です。
 ところで、釈迦は、結婚し、子供もつくってから、あくまでも悟りを開くために家族のもとを去ったのであり、終末論的思想とも無縁であったことを思うと、こういった点でもイエスとは全然違いますね。(太田)

 イエスは、追従者達に、「自分が持っているものは全て貧者に与えよ」、2着目の外衣(tunic)といったものをさえ含めて「何も旅に持って行くな」、そして「自分自身を否定」して私の道を辿れ、と伝えた。
 これでおしまいだ。
 だから、聖フランシスは、遺産を放棄し、ホームレスとなり、肉体労働で食物を稼いだ。
 それだけでは十分食事ができなくなると、彼は、自分がまだまだ精神的に至らないことを申し訳なく思いつつ 食物の施しを乞うた。・・・

→何度でも言いますが、こういった利他主義の押し付けは、釈迦には無縁の話です。
 この筆者だって実践しているわけがありません。(太田)

 ・・・ガンディーからキング<牧師>に至るまで、この種の運動の最も偉大な範例は、権力もまた放棄する。

→前述したように、これはイエスの真意に沿ったものではありません。(太田)

 彼らは道徳的範例として非暴力を抱懐するところ、このパラドックスが、政治や暴力ができ、或いは行うであろうところのものよりも、世界を、より変えるのだ。
 <とはいえ、>実情においては、政治が必要となるのだが、私が描写しているところの種類のキリスト教は、他の信条を抱く人々・・・にアピールするように、常に、宗教的諸真実を理性的で世俗的な諸主張に翻訳しようとするのだ。・・・」
http://www.thedailybeast.com/newsweek/2012/04/01/andrew-sullivan-christianity-in-crisis.html
(4月2日アクセス)

 私には、この、米国のキリスト教全宗派をなで斬りにした筆者が、実はイエスにも皮肉たっぷりな視線を注ぐ、隠れ無神論者に思えてなりません。
 こういったコラムが米一流誌に堂々と掲載されるようになった、ということは、米国におけるキリスト教全体が急速に衰退しつつあることを物語っている、というのが私のとりあえずの見解です。

(きりがないので、一旦、完)