太田述正コラム#5416(2012.4.12)
<黙示録の秘密(その10)>(2012.7.28公開)

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<脚注:奇跡・宗教・マインドコントロール>

 さて、ことのついでに、聖書にも仏典
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/y%20bunkatu-3.htm
にも登場するところの、キリスト教や仏教等、あらゆる宗教につきものの、宗祖等による奇跡をどう考えたらよいのか、更にそれに関連してマインドコントロールとは何か、を検討してみましょう。
 その手がかりとなるニューヨークタイムスの記事があります。
http://www.nytimes.com/2012/04/08/opinion/sunday/in-defense-of-superstition.html?ref=opinion&pagewanted=print
(4月7日アクセス)

 「・・・迷信的思考(superstitious thought)、ないし「魔法的思考(magical thinking)は、たとえそれが現実を歪曲している(misrepresent)としても、メリットがある。
 それは、論理と科学がいつも提供できるとは限らないところの、心理的諸便益・・コントロール感覚と意味の感覚・・を提供するからだ。・・・
 例えば、・・・ある研究では、被験者達が1個のゴルフの球を手渡され、半数の者にはその球がそれまでツイていたと伝えた。
 すると、「ツイてる」球を持った被験者達は、「フツーの」球を持った被験者達よりパット数が35%も少なかった。
 別のシナリオでは、被験者達は、幸運のお守りを持っている時には記憶と言葉のゲームで、より高い成績があげた。
 同様の話の、より現実世界での事例だが、・・・2000年代初めの第二インティファーダ(intifada)の期間中のイスラエルで、暴力攻撃を受けて、イズファト(Izfat)町の世俗的な女性達の36%が詩篇(psalms)を唱えた。
 詩篇を唱えなかったものと比較すると、唱えた女性達は不安の減少によって裨益したことが発見された。
 すなわち、彼女達は、群衆の中に入ったり、買い物に出かけたりバスに乗ったりする時に、より安心でき、その結果として、彼女達はコントロール感覚が増進した、という結論になった。
 もう一つの魔法は、「あらゆるものが原因があって起こる」、つまり、偶然性(randomness)ないし偶発事態(happenstance)などというものはない、というものだ。
 これは、いわゆる目的論的推論(teleological reasoning)であり、ハリケーンのような明白に無目的の存在についてさえ、意図や目標を想定する。
 我々は、社会的動物として、なすべきことをなした誰かと戦ったり協力したりすることができるように、この世の中で意図性の証拠を追求するように生物学的に仕組まれているのかもしれない。
 そして、目に見える下手人(author)がいない場合は、我々は、目に見えないもの・・神、業(karma)、運命、等々・・のせいにする(credit)。
 この幻想もまた、心理学的に有用であることが分かる。
 ある・・・研究では、被験者達は、自分達の人生の中の転換点を回想させられた。
 その転換点が運命付けられていたと感じる程度が増すにつれて、彼らは、より、「それが自分の今日をつくった」とか「それが私の人生に意味を与えた」と信じがちだった。
 運命を信じることは、自分の人生を一貫した物語とすることを助け、自分の目標をより大きな目的感覚で満たす。
 これは、転換点が有害なものであった場合ですら機能する。
 ・・・ある研究によると、良くない出来事を「神の計画の一部」と見た学生達は、爾後、より大きな成長を見せた。
 彼らは、新しい物の見方(new perspectives)により心を開き、人間関係においてより親密になり、試練を克服するにあたってより執拗になった。
 他の人気がある諸迷信に係る類似の諸法則がある。
 例えば、対象物が前の所有者達の「本質」を宿していると信じることだ。(これが、好みの作家が使用したペンを所有したいと思うことがどうしてあるのかを説明する。)
 また、象徴的な対象物がそれが表しているところのものを呼び出すことができると信じることだ。(これが、自分の母親の写真を切り刻むことには慄かざるをえないことを説明する。)
 更に、生命の無い対象物に意識の属性を与えること(attribution)だ。(これが、自分の諸ファイルを削除してしまった携帯パソコンに向かって罵声を浴びせる理由だ。)
 様々な形で、これら全ては基本的な思考(mind)の諸習慣から出現するし、これら全ては混沌として不条理な宇宙に構造と意味を付け加えるのだ。・・・」

 以上から、人が特定の宗教の信者になることがある理由が分かるし、信者になることの心理的メリットもそれなりにあることも分かる。

 ところで、この文章の「宗教」を「異性」、「信者」を「恋愛中の人」に置き換えても成り立つと思わないか。
 信者は特定の宗教家ないし宗教組織に係る魔法の、恋愛中の人は特定の異性に係る魔法の虜になっている、ということだ。
 前者について、これを、当該宗教家ないし宗教組織によるマインドコントロールと形容することがあるが、それなら、後者についても、当該異性によるマインドコントロールということになるだろう。
 しかし、マインドコントロールという言葉を使う時に注意しなければならないのは、それが、一方通行で成立するわけがないことだ。
 つまり、「信者」候補者や「恋愛中の人」候補者の側が望むからこそ、マインドコントロールが成立するのだ。
 最近の卑近な例で言えば、中島知子(一種の信者)の(元)占い師(一種の宗教家)、小林幸子(恋愛中の人)のご主人(異性)が、それぞれ、中島と小林の「回心」・・それぞれの、両親、事務所役員達との断絶・・をもたらした、として、当初、悪者にされていたけれど、中島については、自分で自分自身にマインドコントロールをかけた度合いの方が高いという疑いが強まっている(コラム#5381)し、小林についても、自分自身にマインドコントロールをかけた部分があることが次第に明らかになってきている(コラム#5413)。

 こんなことを言うのは、パウロの回心の事例があるからだ。
 
 「・・・パウロは<生前の、つまり本物の>イエスに一度も会っていない。
 パウロは<自分の前に立ち現れた>天にまします(heavenly)イエスと一度出会った<だけだ>。
 <それなのに、>パウロはこの宗教的経験<だけ>によって<それまで反キリスト教運動に従事していたのに、>完全にキリスト教に改宗してしまった。
 歴史上のイエスはこのことの生起にとって全く必要ではなかったのだ。・・・」
http://religion.blogs.cnn.com/2012/04/07/the-jesus-debate-man-vs-myth/?hpt=hp_mid
(4月9日アクセス)

 つまり、パウロの場合、イエスの方から、あるいはキリスト教の方から、パウロへの働きかけは全くなかったのに、自分で自分自身をマインドコントロールにかけたわけだ。
 
 この、自分で自分自身をマインドコントロールにかけることこそが、執着(しゅうじゃく)なのだ、と私は考えるに至っている。

 「執着(しゅうじゃく、abhiniveza・・・)とは、仏教において、事物に固執し、囚われる事。主に悪い意味で用いられ、修行の障害になる心の働きと考えられている。・・・仏教術語というより、一般的な用語であり、現代語の執着(attachment)によく似た意味で、煩悩の術語としてのraaga(愛)あるいはlobha(貪)に近い。・・・キリスト教では愛を説くが、上記の見解から、仏教では愛ではなく慈悲を唱える。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%B7%E7%9D%80

 この点においても、哲学者たる釈迦の言説は、宗教者たるイエスのそれ・・正しくも、宗教愛に異性愛と同じ「Agape(アガペー。新約聖書の原語たるギリシャ語)=love」という言葉を用いている!
http://en.wikipedia.org/wiki/Agape
・・とは比べようもないほど深く、鋭い、と言わざるをえない。

 蛇足ながら、釈迦の実在を疑う人はいないけれど、イエスの実在を疑う人は数多い。
 というのも、聖書中の諸福音書の筆者達を除けば、実在したイエスについて記した文章を残した人が二人しかないからだ。
 一人は1世紀末にイエスについて書いた、ユダヤ人歴史家のヨセフス(Josephus)(注30)(コラム#4055)であり、もう一人は2世紀初にイエスについて書いた、ローマ人歴史家のタキトゥス(Tacitus)(コラム#41、125、372、852、854、857、1397、1488、2494、3023、4396、4408、4412、4801、4803、4857)だ。

 (注30)フラウィウス・ヨセフス(Flavius Josephus。37〜100?)。「エルサレム(ユダヤ属州州都)の祭司の家系に生まれ、・・・64年にはユダヤ人の陳情使節の一員としてローマへ赴き、ネロ帝妃ポッパエア・サビナの知己を得ている。<第一次>ユダヤ戦争の初期(66年)、ヨセフスは防衛のためエルサレムからガリラヤへ派遣され、ガリラヤの町ヨタパタを守ってローマ軍と戦ったが敗れた。異邦人への投降をよしとしない守将たちは自決を決議、くじを引いて互いに殺しあったが、ヨセフスは最後の2人になったところでもう1人の兵士を説得、2人で投降した。ローマ軍司令官ウェスパシアヌス(後のローマ皇帝)の前に引き出され、ウェスパシアヌスがローマ皇帝になると予言して命を助けられる。ネロ帝死後の混乱を経て実際にウェスパシアヌスが皇帝になると、その息子ティトゥスの幕僚として重用され、エルサレム攻撃に参加。70年のエルサレム陥落を目撃し<、>・・・後にこの顛末を記した『ユダヤ戦記』を著した。・・・さらに95年ごろ、・・・『ユダヤ古代誌』も完成させた。『ユダヤ古代誌』18巻63には「フラウィウス証言」と呼ばれるイエスに関する記述があることで有名・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%82%BB%E3%83%95%E3%82%B9

 しかし、学者の中には、ヨセフスによる該当箇所はその後キリスト教関係者によって改竄されたと言う者がいるし、そもそも両者とも歴史家として信頼性が高くないとする学者もいる。
 例えば、両者とも<、何と>ヘラクレス(Hercules)を実在の人物として叙述している。
 (以上、下掲による。
http://religion.blogs.cnn.com/2012/04/07/the-jesus-debate-man-vs-myth/?hpt=hp_mid 上掲)
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(続く)