太田述正コラム#5414(2012.4.11)
<黙示録の秘密(その9)>(2012.7.27公開)

 イエスの人間主義のもう一つの問題点は、下掲から明らかなように、それが、人間主義ならぬ、利他主義の勧めであったことです。

 「子供たちを自由に来させなさい。邪魔をしてはいけない。神の国は、<純真な>子供たちのような者の国なのだ・・・
 はっきり言っておくが、子供のように神の国を受け入れる人でなければ、けっしてそこに入ることはできない」(マルコ10章)
http://www.fruits.ne.jp/~k-style/sub8.html
 「私の掟はこれである。私があなたがたを愛したように、あなた方も互いを愛しなさい。」(ヨハネ15章)
http://ja.wikiquote.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88
 「一人の男がイエスに近寄って来て尋ねた。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればいいのでしょうか」
 イエスは答えた。
 「・・・神の掟を守りなさい」
 この男が、「どの掟ですか」と聞くと、イエスは答えた。
 「『殺すな。姦淫するな。盗むな。偽証する(嘘をつく)な。父母を敬え。また、隣人(他の人々)を自分のように愛せよ』という聖書の掟である」<(※へと続く)>
http://www.fruits.ne.jp/~k-style/sub8.html 前掲

→このあたりまでは、(「隣人・・・を自分のように愛せよ」は利他主義に近いが、)一応、人間主義の勧めと言えるでしょう。(太田)

 「あなたがたの敵を愛せ。」(マタイ5章)
 「人その友のため命を捨てるこれより大いなる愛はない。」(ヨハネ15章)
http://ja.wikiquote.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88 前掲
 ※「その青年は、「それらはみな守ってきたがまだなにか欠けているのでしょうか」と問い、イエスは答えた。
 「もし完全になりたいなら、家に帰って持ち物を売り払い、貧しい人々にあげなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしについて来なさい」
 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
 イエスは弟子たちに言った。
 「はっきり言っておくが、金持ちが天の国に入るのは難しいことだ。重ねて言っておくが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがやさしい」
 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「人間には出来ないが、神は何でもおできになる」と答えた。」(マタイ19章)
 「人の最大の敵は家族の中にいるのです。わたし以上に父や母を愛する者は、わたしの弟子(信じる者)にふさわしくありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしの弟子(信じる者)にふさわしくありません。後生大事に自分の命を守ろうとする者は、それを失いますが、わたしのために、命を失うものは、かえってそれを保つ(自分のものとする)のです」(マタイ10章)
 「「いつか、東や西から大勢の外国人が来て、天の国でその席に着く。でも、もともと天国に入るはずの多くの人が、外の暗闇に追い出され、そこで泣きわめき、歯ぎしりして苦しむ事になるのです・・・はっきり言っておきたい。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」」(マタイ8章)
http://www.fruits.ne.jp/~k-style/sub8.html 前掲
 「右のほほを打たれたら、左の頬をも差し出せ」(マタイ5章)(注25)
http://www.kawasaki-m.ac.jp/soc/mw/journal/jp/2002-j12-2/4-hayashi.pdf

 (注25)これは、一般に、「悪に対し悪を以って報いてはならない」という暴力による報復を禁止した言葉、あるいは、無抵抗、無暴力主義を表明した言葉であると解釈されているけれど、アウグスティヌスによるところの、「右の頬」とは霊的なあるいは天上の善きもの、「左の頬」とは肉的あるいは地上の善きものであって、「左の頬をも向けなさい」とは「右の頬も左の頬も打たれるままにせよ」という意味でではなく、「左の頬を向けることによって右の頬を打たれないようにせよ」、つまり「肉的な善きものを犠牲にしても霊的な善きもの(特に信仰)を守りなさい」という意味であるとする指摘
http://www.kawasaki-m.ac.jp/soc/mw/journal/jp/2002-j12-2/4-hayashi.pdf 上掲
は重要だ。
 恐らくアウグスティヌスのこの指摘は正しいのであって、イエスは、私人による自力救済こそ禁止したかもしれないが、(イエスによる前出の実力行使のごとき)キリスト教を守るための暴力の行使も、国家による「正当な」暴力の行使も、認めていたと思われる。
 すなわち、イエスには、反権力的ないし無政府主義的発想は全くなかった、と思うのだ。

 これらは、利他主義の勧めです。
 どうして、利他主義の勧めが問題であるかというと、イエス自身が認めているように、利他主義を実践することは、勧められても普通の「人間には出来ない」からです。
 ということは、個人財産を放擲した独身の、利他主義を実践するところの、少数のプロ集団からなるキリスト教会の誕生と、この集団に喜捨する・・後には教会税を払う・・ことによって神の御利益(ごりやく)のご相伴にあずかるところの、利他主義を実践しない(実践できない)多数のアマ信徒達、への分断が論理必然的に招来されることを意味します。
 これに対し、釈迦は利他主義どころか、人間主義すら他人に注入しようとはせず、誰でも悟りに達することができ(注26)(、その結果として人間主義が内面から発露してく)る、という考えだったのですから、上述したような分断が起こるはずがありませんでした。(注27)

 (注26)「釈迦の<行ったことは、>「苦悩は執着によって起きるということを解明し、それらは正しい行ない(八正道)を実践することによってのみ解決に至る、という極めて常識的な教えを提示することだった・・・従って人生問題の実際的解決は、釈迦に帰依しなくても実践可能であり、釈迦は<、イエスとは違って(太田)、>超能力者でも霊能者でも、増して「最終解脱者」でもなく、勿論「神」のような絶対者でもなかった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
 このくだりの典拠は、高橋紳吾『超能力と霊能者-叢書 現代の宗教<8>』 (岩波書店 1997年)
http://www.amazon.co.jp/%E8%B6%85%E8%83%BD%E5%8A%9B%E3%81%A8%E9%9C%8A%E8%83%BD%E8%80%85-%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99-%E9%AB%98%E6%A9%8B-%E7%B4%B3%E5%90%BE/dp/4000260782/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1334061796&sr=1-2
215〜216頁、とされている。
 ちなみに、高橋は、医大入試に失敗して大谷大学で2年間仏教を学んだ後、東邦大学医学に入学し、部卒、同大学院卒、ハイデルベルグ大学留学の精神科医で、東邦大学助教授時代に亡くなったところの、憑依やマインドコントロールの専門家である。
http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/takahasi.htm
http://mbp-hiroshima.com/nakanelaw/column/874/
http://mbp-hiroshima.com/nakanelaw/column/873/
 (注27)上座部仏教(Theravada Buddhism/小乗仏教)国の代表とも言うべき「タイにおいては、仏教徒の男子はすべて出家する<こと>・・・が社会的に奨励される・・・僧はいつでも還俗することができ、その意思が妨げられることはない」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99
は、初期の仏教において、プロとアマの違いがなかったことの痕跡であろう、と私自身は見ている。
 とはいえ、釈迦の入滅後、釈迦の追従者達によって仏教という宗教が成立し、様々な経典がつくられ、宗派が分かれて行く過程で、仏教においてもプロとアマの分断が生じて行くことになる。

 さて、このことが、前述したところの、イエス由来のキリスト教の他の宗教や宗派に対する戦闘性と結び付くと、キリスト教会は、20世紀に出現した共産党やナチスのような、隠密裏に、情報収集、情宣(布教)活動に従事する独裁組織へと、これまた、ほぼ必然的に「発展」して行くことにならざるをえません。
 そして、このような教会の布教活動、及びその教義(「産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」(創世記9章))
http://www.iris.dti.ne.jp/~grace/newpage1263.htm
、によってキリスト教徒が増えて行くと、権力と衝突する可能性が増大します。
 そこで、権力との利害調整を図ることで、権力を味方につける必要が出てきます。
 そのことを予想し、先回りしたのが、(イエス自身が本当にそう言ったかどうかはともかく、)下掲のイエス発言である、と私は解しています。
 
 「カエサルのものはカエサルに収め、神のものは神に納めよ。」(マタイ22章)
http://ja.wikiquote.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88

 このような、利他主義の注入や権力との癒着のいずれとも、釈迦は無縁でした。(注28)

 (注28)パーリ語経典経蔵小部の『ジャータカ』及び漢訳大蔵経の本縁部に収録されている各種の話(ジャータカないし本生譚)の中で、釈迦の前生が「飢えた虎とその7匹の子のためにその身を投げて虎の命を救った」といったような、利他主義を実践する場面がいくつも出てくるが、これらの話を含め、『ジャータカ』は、釈迦入滅後の「紀元前3世紀ごろの古代インドで伝承されていた説話などが元になって・・・そこに仏教的な内容が付加されて成立したものと考えられて」おり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%AB
釈迦自身が利他主義を勧めた形跡はない。
 なお、権力との利害調整について、釈迦が言及した形跡もまたない。

 そして、イエスの最大の問題点は、以下のように、彼が、ユダヤ教に言うメシア(注29)に自らを擬しつつ、終末論を説いたことです。

 (注29)「メシアは、ヘブライ語・・・で、「(油を)塗られた者」の意。・・・
 出エジプト記には祭司が、サムエル記下には王が、その就任の際に油を塗られたことが書かれている。後にそれは理想的な統治をする為政者を意味するようになり、さらに神的な救済者を指すようになった。ユダヤ教におけるメシア・・・はダビデの子孫から生まれ、イスラエルを再建してダビデの王国を回復し、世界に平和をもたらす存在とされている。
 メシアに対応するギリシャ語はクリストス(Χριστος)で、「キリスト」はその日本語的表記である。キリスト教徒とイスラム教徒はナザレのイエスがそのメシアであると考えている。イエスをメシアとして認めた場合の呼称がイエス・キリストである。・・・
 ・・・当然ながらユダヤ教からはイエスは偽メシアとして見られている。・・・
 イスラームでもユダヤ教、キリスト教からメシアの概念は継承されて<いる>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%B7%E3%82%A2

 「キリストは十字架につけられる少し前に、オリーブ山で弟子たちに説教し、・・・「世の終わり」のしるしがどのようなものであるかを語った(マタイによる福音書24<章>〜25<章>)。・・・
<キリストの>再臨の時は父なる神のみが知る事項で、子なる神であるキリストも御使い(天使)も知るところではない(マタイ24<章>)。それゆえ、再臨が近いことは前述のしるしに鑑みて確かではあるが、その時を予言・予測することはできない、また、してはならないとされている。「人の子(キリスト)は思いがけない時に来るのですから」(マタイ24<章>)。
 またその様態は、人々が認知できる様態でキリストは再び来ると聖書では述べられている。「あなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」(使徒行伝1<章>)。」

 イエスのこれらの言説を受け、使徒パウロは、第一コリント<書>の15<章>で<イエスの再臨>を唱え、『ヨハネの黙示録』では、イエスの再臨について、復活し、天に昇ったとされるイエス・キリストが世界の終わりの日に、キリスト教徒を天へ導き入れるため、また、世界を義をもってさばくために、再び地上に降りてくる、と記されるに至ったのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8D%E8%87%A8

 これに対し、「釈迦にとってより重要だったのは、死後の世界よりもいま現在の人生の問題の実務的解決だった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6 前掲
(典拠は、高橋ibid.、とされている。)
ことを銘記すべきでしょう。

(続く)