太田述正コラム#5412(2012.4.10)
<日本・法王庁「同盟」(その5)>(2012.7.26公開)

<脚注:第二次世界大戦の勃発を巡る疑問>

 ドイツとソ連のポーランド侵攻を受け、英仏は、ドイツにはただちに宣戦したが、ソ連には宣戦しなかった。
 ポーランドと英仏は同盟関係にあったが、英国に関しては、Polish-British Common Defence Pact(1939年8月25日)には、条約にある「欧州の国(European power)がポーランドを攻撃した場合」の「欧州の国」とはドイツを指すとの秘密協定があったのに対し、フランスに関しては、Franco-Polish Military Alliance(1921年)があったが、文字通り無視されたことになる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Soviet_invasion_of_Poland
 どうして、当時、両国がこれほどソ連(赤露)、つまりは共産主義に甘い姿勢をとるに至っていたのか、大戦後の冷戦のことを考えれば、容易に理解しがたいものがある。
 ちなみに、ドイツから、中ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、矢の催促を受けていたにもかかわらず、ソ連がポーランド侵攻をドイツより16日遅れて17日に決行したのは、日本との間のノモンハン事件の停戦がようやく9月16日成立したからに他ならない。
http://en.wikipedia.org/wiki/World_War_II
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E3%82%BD%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E4%BE%B5%E6%9D%A1%E7%B4%84
 (ついでだが、第二次世界大戦の英語ウィキペディアは、同大戦の前史の中で、張鼓峰事件についてもノモンハン事件についても、日本軍の侵攻が原因で始まり、日本側が敗北した、と断定しており、日本人有志による書き換えを求めたい。)
 1939年11月30日にソ連がフィンランドに侵攻した(冬戦争。〜1940年3月13日)ところ、これをソ連のドイツ側に立っての第二次世界大戦への参戦に等しいと受け止めた英仏が、国際連盟からのソ連の追放に与し、成功した
http://en.wikipedia.org/wiki/World_War_II#War_breaks_out_in_Europe 前掲
ことを考えると、両国が、宣戦はともかくとして、ソ連のポーランド侵攻時に同国の国際連盟からの追放をどうして行おうとしなかったのだろうか。
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ピオ12世は、最初の回勅『スンミ・ポンティフィカトゥス(Summi Pontificatus)』(1939年10月20日)を発表し、ポーランドへの侵攻、同国の占領と分割を非難しました。
 これが、ドイツとソ連両国を非難したものであることは明白です。
 英仏は、この回勅を、(あくまでもドイツに対するものと受け止めたということなのでしょうが、)驚きをもって好意的に受け止めました。
 翌1940年1月18日には、同法王は、ポーランドの一般市民多数が殺害されていることを非難しました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XII (前掲)
 1941年6月22日に、ドイツはソ連に侵攻しますが、同法王は、敵の敵・・と法王庁はみなしている、と少なくともナチスドイツとファシスト・イタリアは思っていた・・へのこの攻撃については、沈黙を守ります。
http://www.amazon.com/The-Vatican-Communism-During-World/dp/0898705495 
(4月5日アクセス。これ↑は、やや、典拠としての信頼に乏しいが・・。)
 そして、同年、同法王は、ピオ11世界の回勅『ディヴィニ・レデムプトリス(Divini Redemptoris)』がカトリック教徒が共産主義者達を助けることを禁止していたところ、これがソ連に対する軍事援助には適用されないという解釈を打ち出しました。
 これは、米国による軍事物資貸与(Lend Lease)のソ連への拡張に反対してきた米国のカトリック教会の姿勢を緩和するものでした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XII 前掲
 1943年3月には、法王庁はドイツ外相のリッベントロップに対し、ナチスによるポーランドのカトリック教会に対する迫害に抗議する書簡を送っています。
 そして、1943年4月には、ハンガリー首相のミクロス・カライ(Miklos Kallay)(注11)を引見した同法王は、ナチスは共産主義者達よりはるかに悪質であり、ナチスの勝利は欧州におけるキリスト教の終焉を意味するかもしれない、と語っています。
http://www.amazon.com/The-Vatican-Communism-During-World/dp/0898705495 前掲

 (注11)Dr. Miklos Kallay de Nagykallo。1887〜1967年。ハンガリー首相:1942年3月〜1944年3月。ハンガリーはナチスドイツと同盟関係にあったが、カライ政権は、ユダヤ人迫害等には同調せず、また、共産党を除く左翼政党の活動を認めた。そして、ドイツのソ連に対する戦争の継続は支持しつつも、連合国に対して宥和的メッセージを発し続けた。ついには、ドイツは、ハンガリーを占領し、カライ政権を打倒し、彼は強制収容所送りとなる。戦争末期に米軍によって解放されるが、戦後のソ連の占領を受け、1946年には亡命し、1951年に米国に移り住み、そこで生涯を終えた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mikl%C3%B3s_K%C3%A1llay

 同法王による、このような、ナチスドイツに対する抗議「は第二次世界大戦中の1943年8月19日付け、9月12日発表の、「精神病患者・捕虜・異人種の殺害」に抗議する「第五戒(汝殺スナカレ)の解説」を中心とする共同教書まで続けられた」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf 前掲
のです。

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<脚注:共産主義に対する1937年の回勅以降の非難>

 法王ピオ12世は、ソ連によるフィンランド侵攻に対し、1939年12月26年のヴァチカンでの講話で非難し、後日、フィンランドのために、署名し封緘された祈祷を寄贈している。http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XII 前掲

 そして、同法王は、大戦後の1949年7月1日に、法王庁の検邪聖省に、共産主義に対する聖省令を発布させている。

 その内容は、あらあら以下のとおり。

一、共産党に党員として加入すること、あるいは、なんらかの方法で、これを助けることは許されるか。→いな。・・・
二、共産主義者の理論あるいは行動を支持する書籍、雑誌、新聞、あるいはリーフレットを刊行し、流布し、読み、あるいは、これに書くことは許されるか。→いな。・・・
三、 一および二に該当する行為を、知りながら自由になす信徒に、秘跡をさずけることができるか。→いな。・・・
四、共産主義者の唯物主義的・反キリスト教的理論を奉じている信徒、とくに、これを防衛し、あるいは宣伝する信徒は、カトリック信仰に対する背教者として・・・破門に処せられるか。→しかり。
http://hvri.gouketu.com/diviniredemptoris.htm
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4 法王庁の日本との「同盟」

 1937年の件の「2つの回勅は、どちらも、欧米の(自由)民主主義諸国では全く反響を呼びませんでした」と前に書きましたが、この2つの回勅が同年3月に発表される「つい一カ月前」(下掲)の2月に、恐らく、日本の有力政治家の誰かが、法王庁の対赤露ないし対ナチスドイツ政策に敬意を表する発言を行っていたと思われるところ、そのことに、法王庁が、共産主義に対する回勅の中でわざわざ言及したことは、興味深いものがあります。

 「・・・極東のキリスト教徒でないある偉大な政治家は、つい一カ月前、教会はその平和とキリスト教的兄弟愛とに関する教義によって、諸国家間の平和の確立ときわめて骨の折れるその維持とに、きわめて貴重な貢献を行なっていると断定してはばからなかった。・・・」
 (『ディヴィニ・レデンプトーリス』より)

 そして、同年7月に日支戦争が始まると、10月に、法王庁は、「全世界のカソリック教会および伝道所に・・・「今回日本の直接の関心は共産党勢力の浸潤駆逐に他ならないから」日本軍の支那における反共聖戦に協力すべしとの趣旨で・・・日本の文明擁護の意図を支那が諒解の必用あることを説き、同時に外蒙よりする凶暴なる影響を駆逐すること。・・・共産主義の危険が存する限り遠慮することなく日本を支援すべきこと。・・・日本軍当局に対しカソリック教会の立場は全然日本との協力にあることを徹底せしめること。」(前出)等を指令したわけです。
 これは、ピオ11世や(将来の)ピオ12世らは、支那等のカトリック組織を通じて、日支戦争が、文明と非文明、自由主義と共産主義との戦いであることを、中国国民党政府が赤露のフロントであるとの認識の下、精確に見抜いていた、ということであり、この時点で、日本と法王庁は、同盟関係、しかも価値を共有する同盟関係、に入ったと言っても過言ではないでしょう。
 とにかく、日本の東アジア政策、就中対支政策は、(横井小楠コンセンサスに則り、)ロシア、改め赤露抑止を目的としたものであることを、真正面から認め、日支戦争において日本の全面的支持を表明したところの、全球的宗派、というより、有力な欧米の主権国家・・カトリック教会・・があった、ということを、我々は決して忘れないようにしようではありませんか。

 (当時のカトリック教会は、共産主義とナチズムの挟撃を受け、実存的危機に直面していたわけですが、そのおかげで(?)、その歴史を通じて最も輝いていた、と言えそうです。
 この実存的危機を乗り越えた後のカトリック教会が、現在、再び、保守反動的・独裁的な存在に成り果てていることは残念でなりません。
 何度も申し上げていることですが、同教会は、主権国家であることを永久に放棄すること等、自ら、抜本的改革に乗り出す必要があります。)

 ところで、不思議なのは、日本と法王庁が国交を樹立するに至るまでに、その後、随分、時間がかかったことです。
 1939年12月には、米国のローズヴェルト政権がイニシアティヴをとって、米国と法王庁が国交を樹立しています。
 (正確には、1870年に、法王が世俗的権力を失った時点で両「国」の国交が断たれていたのが、国交が回復したもの。)
 米国に先を越された日本が法王庁と国交を樹立するのは、太平洋戦争が始まった翌年の1942年3月でした。
 これは、調べていないので断言は控えるべきなのですが、日本の方が、江戸時代のキリシタン(事実上カトリック)禁制の因縁から、法王庁との国交樹立に躊躇していた、という可能性が大いにあると思います。
 いずれにせよ、米英と戦っている日本(、しかも、法王庁の仇敵であるナチスドイツと同盟関係にあった日本)とあえて国交樹立をした法王庁の親日ぶりには瞠目すべきものがあります。(日本のナチスドイツやファシストイタリアとの同盟は、敵の敵との便宜的同盟に過ぎないことを法王庁は良く分かっていた、と言うことでしょうね。)
 興味深いのは、同じ1942年6月に、法王庁が今度は、日本の戦争相手の一つである中国国民党の蒋介石政権と国交樹立をしていることです。
 これは、法王庁が、日本から親日の汪兆銘政権との国交樹立の要請を受けていたために、この時期にずれこまざるをえなかったということなのですが、法王庁としては、日本との国交樹立の米英等に及ぼすインパクトを緩和するために、蒋介石政権との国交樹立を図らなければならなかったということではないでしょうか。
 (以上、事実関係は下掲による。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XII 前掲)

(完)