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太田述正コラム#5410(2012.4.9)
<日本・法王庁「同盟」(その4)>(2012.7.25公開)

<脚注:カトリック教会の自由主義への回心>

 共産主義に対して発表された方の回勅の以下のような記述から、果たして、カトリック教会が私の言うように自由主義へ回心したのか、疑問を持つむきもあるかもしれない。

 「・・・教会の感化のもとに、感嘆すべき慈善事業、あらゆる種類の職人と労働者との協同組合が出現した。前世紀の自由主義は、これを嘲笑した。その理由は、中世期の組織だからということであった。ところが、今日、これらの組織は現代人の感嘆するところとなっており、種々の国で、これを復活させようと努力している。<(コーポラティズム礼賛!(太田))>・・・
 諸民族の長たちが、教会の教えとその母心の警告をあなどらなかったならば、社会主義も共産主義も生まれなかったにちがいない。けれども、かれらは、自由主義と俗化主義との土台の上に、他の社会的建物をきずこうと考えた。・・・
 <かかる>自由主義は共産主義の道を開いた<のだ。>・・・
 ・・・社会は人間のためにつくられるのであって、人間が社会のためにつくられているわけではないからである。だからと言って、個人主義的な自由主義が考えているように、社会を個人の利己的な利用に委ねてはならない。むしろ、個人と社会とは、有機的に一致し、相互に協力することによってこそ、この地上に、万人のために、真の幸福をきずくことができるのである。・・・
 道に反する自由主義がわれらをおとしいれた破滅から今日の世界を救う手段は、階級闘争でも、恐喝でも、まして、国家権力の専制的な乱用でもなく、社会正義とキリスト教的愛徳との鼓吹する経済的秩序の回復にある・・・」 (『ディヴィニ・レデンプトーリス』より)

 しかし、この回勅が否定している自由主義には、「前世紀の」、「俗化主義<的な>」、「個人主義的な」、「道に反する」という限定的な修飾語が付いてことに留意すべきだろう。
 人権の不可侵性を認めたカトリック教会は、「今世紀の」「個人主義でも全体主義でもない」「道に適った」自由主義への回心を成し遂げた、と言ってよいのだ。
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 そうして、カトリック教会は、全球的宗派及び主権国家として、以下のように、ナチスに対し、その同教会絶滅政策に抗議するとともに、自由主義を掲げて反撃を行ったのです。

 「・・・教皇回勅「深き憂慮に満たされて」は、<このように、>まずカトリック教会、関係諸団体、学校教育などカトリック教会に直接間接に関わる領域におけるドイツ政府やナチ党による弾圧・迫害の事実を公表し、それに公然と抗議した。次に第三帝国における人種や民族の崇拝、国家や権力者への賛美を偶像崇拝的なものとして拒否し、ナチズムの世界観を根底的に批判していた。この二つの指摘がナチス政府への《申し入れ》という形ではなく、《公開抗議》という形をとったこと、しかもそれが《教書》ではなく《回勅》の朗読という最も高い調子の形態で行われたこと、しかもその回勅がラテン語ではなくて、ドイツ語によって書かれたことは、まさに目の前のナチス国家に対する《公然たる宣戦布告》に等しいものであった。・・・
 ドイツ語原文の回勅は後にも先にもこれ限りである。・・・
 当時すでに、この回勅は「主権を持つ機関がその職務の行使において第三帝国について行った発言の中で最も激烈なもの」である、と評価されていた。・・・
 《申し入れ》や《交渉》だけではナチス当局は動かされない、と判断し、むしろ公然たる抗議によるカトリック民衆へのアピールによって、目に見える形での力をむろん暴力ではなく平和的な意思の力を現実に示さなければならない、そうすることによってのみナチス指導者たちは動かされる・・・。こうした主張を支えたのは、「第三帝国の政治的意思決定の担い手は政府ではなくナチ党である」(シュルテ枢機卿から教皇庁国務長官あて1937年1月16日付け文書)ということ、そしてその究極的目標の一つが「カトリック教会の破壊、まさにキリスト教そのものの根絶」(1938年8月19日付けドイツ司教共同教書)であるということ、そのことの明確な認識であった。・・・」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf 前掲

 すなわち、カトリック教会は、「<同>教会・・・<に対する>ドイツ政府やナチ党による弾圧・迫害」に抗議するとともに、「人種や民族の崇拝、国家や権力者への賛美」について、(教義上の観点からに加え、)自由主義の観点から反撃を行った、ということです。

 このように、カトリック教会がナチスドイツと四つに組んで戦うことができたのは、皮肉なことに、同教会が、共産党やナチ党のプロトタイプ的な独裁的組織であったからこそでした。
 前に引用した下掲は、カトリック教会が、全球的に「正確<で>・・・豊富な情報」収集能力を有していたことを示しています。

 「・・・敵の活動について正確な、しかも十分に豊富な情報を提供し、種々の国々において効果をあげた戦いの方法をかかげ、共産主義者たちが使用して、すでに、誠実な人々さえもその陣営に引きいれることに成功した奸策と欺瞞とを警戒させるために、有益な暗示を与えなければならない。・・・」(『ディヴィニ・レデンプトーリス』より)

 また、下掲から、法王庁の指揮の下、ドイツ内のカトリック教会組織が、隠密にして一糸乱れぬ行動をとったことが見て取れます。

 「・・・カトリックの組織<は>この試練の時にも確固としており、またその戦線の連携(保管者、仲介者、配送者、印刷者)が道徳的にも堅固であって、<ナチスドイツに対する回勅の配布、読み上げに際して、>そこに何の遺漏も、伝達不十分も生じなかった・・・。・・・
 <実際、>完成された回勅のドイツ語原本は教皇庁の印刷所で印刷され、秘密特使の手で3月14日、まずベルリンのプライジング司教に届けられた。そこからさらに回勅はドイツ各地の司教の手元に、やはり特使によって3月16日までに配送された。検閲・摘発を恐れて郵便は利用されなかった。各地の司教座ではそれを大量に印刷させた。説教壇から朗読するだけでなく全カトリック世帯に配布するためである。回勅の内容が余りに長文だったために印刷されたものは冊子となり、ミサの終了後に販売された。・・・」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf 前掲

 しかし、この2つの回勅は、どちらも、欧米の(自由)民主主義諸国では全く反響を呼びませんでした。
 ピオ11世は、これを「沈黙の陰謀(Conspiracy of Silence)」と形容したものです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XI 前掲

 カトリック教会は、ナチズムに対する非難を、ナチスドイツが崩壊するまで、執拗に継続することになります。(共産主義に対する非難については、後で脚注で取り上げる。)
 1939年3月にピオ12世(Pius XII)(注10)(コラム#3094、4846、4848)が法王に就任します。

 (注10)エウジェニオ・パチェッリ(Eugenio Pacelli)→ピウス12世(1876〜1958年。法王庁国務長官[Cardinal Secretary of State]:1929〜39年。法王:1939〜58年)。ローマ生まれ。「<第二次世界大戦>が始まると、第一次世界大戦時のベネディクト・・・15世のやり方に倣って、バチカンは「不偏」を主張した。しかし、バチカンがナチス党政権下のドイツのユダヤ人迫害に対してはっきりと非難しなかったことは、戦後激しく批判されることになる。・・・<ところが、>[第二次世界大戦勃直後の1939年に、ピオ12世は、(ムッソリーニの1938年の反ユダヤ法で失職していた1人のユダヤ人をヴァチカン図書館職員に採用するとともに、2人のユダヤ人をヴァチカン科学アカデミー会員に任命したし、]<1943年9月に>イタリア敗戦に伴ってドイツ軍がローマを占領すると、多くのユダヤ人がバチカンで匿われ、バチカンの市民権を得ることができ、これによって戦後、イスラエル政府は「諸国民の中の正義の人」賞をピウス12世に贈っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A6%E3%82%B912%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XII ([]内)

 時あたかも、同年9月1日、ドイツ軍が(、そして続いて9月17日にソ連軍が、)ポーランド領内に侵攻し、ポーランドの同盟国であった英国とフランスが9月3日にドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6#1943.E5.B9.B4

(続く)

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