太田述正コラム#5394(2012.4.1)
<松尾匡『商人道ノススメ』を読む(続)(その2)>(2012.7.17公開)

 しかし、社会を「保護/統治」するにあたって社会の存在が前提になっていることは当然ですが、「商業/市場」が機能するためにも、少なくとも治安が維持されていることや裁判制度があること、すなわち社会の存在は不可欠です。
 その社会は、言うまでもなく、人間集団であるところ、「保護/統治」にはもちろんのこと、「商業/市場」にも、事実上「身内集団原理」が働いていない限り当該社会は維持できないはずであることから、松尾のように、「身内集団原理」を「保護/統治」だけに関わるものと解することはナンセンスなのです。

4 ジェイコブズ批判
 
 さて、更に根本的なことですが、このように考えて来ると、ジェイコブズが、「両系統の徳目を適当にまぜあわせると最悪の腐敗<(=道徳の恐るべき雑種)>が生じると言」っていること自体、果たして正しいのかどうかが疑問になってきます。
 換言すれば、上述したように「身内集団原理」が事実上「開放個人主義原理」で動く「商業/市場」にも働いているだけでなく、そもそも、「身内集団原理」と「開放個人主義原理」は截然と分かれているわけではないのではないか、という疑問が生じてくるのです。

 このことを考える手がかりになるのが、ジョン・トマシ(John Tomasi)(注3)が上梓したばかりの、 'Free Market Fairness' です。

 (注3)コルビー(Colby)単科大学学士、アリゾナ大学修士(1990年)、オックスフォード大学博士(1993年)で、プリンストン大学とスタンフォード大学で教鞭を執った後、現在ブラウン大学政治学教授。
http://mercatus.org/john-tomasi

A:http://press.princeton.edu/titles/9735.html
(3月30日アクセス(以下同じ)。書評(以下同じ))
B:http://online.wsj.com/article/SB10001424052702304724404577291591833180250.html?mod=WSJ_Opinion_LEFTTopOpinion
C:http://bleedingheartlibertarians.com/2011/06/free-market-fairness/
(本人によるこの本の紹介)

 「・・・伝統的なリバタリアン(libertarian)達とは違って、トマシは、個人所有権(self-ownership)や経済的効率性によってではなく、民主主義的正統性の要請であってこそ、財産権(property rights)は最も良く擁護される、と主張する。
 彼は、同時に、社会正義に関心のある平等主義者達に対し、日常生活における個人的な経済的自由の重要性を普通の市民達が訴えることにもっと同情的に耳を傾けよ、と呼びかける。
 お馴染みの社会的正義の民主主義的解釈に代えて、トマシは、社会的正義の「市場民主主義(Market democracy)的」概念を提供する。
 それが、自由市場公正さ(free market fairness)だ。・・・
 この自由市場公正さもまた、他と明確に区別されるところの米国的理想だ。
 それは、米国の建国期において顕著であったところの、財産の保護と現実の機会の増進の両者が不可分の目標であるという観念を拡張するものだ。
 実際、トマシによれば、自由市場公正さは社会的正義の米国版(American style)なのだ。・・・」(A)

 「・・・だから、自由市場公正さは、ロバート・ノジック(Robert Nozick)<(コラム#3622、4864)>のようなリバタリアンとしばしば結び付けられているところの、個人所有権は社会的生活の根底的原則(grounding principle)であるとする観念を拒絶する。
 同様、自由市場公正さは、(それ自体が目的であると見なされるところの、)幸福ないし効率ないし経済成長が社会的生活の根本的原則(fundamental principle)として機能(serve)することを認められるべきであるとする観念も拒絶する。・・・
 市民達は、単なる自利的(self-interested)契約者達ではない。
 市民達は、効用極大主義者(utility maximizer)でもない。
 市民達は、彼らのうちの最弱者でさえ受け入れることができる条件下で他者達と共に生きることにコミットしているところの、道徳的存在なのだ。・・・」(C) 

 「・・・ジョン・ロールズ(John Rawls)<(コラム#1699、3624、3997、4862)>の『正義論(A Theory of Justice)』が出現したのは1971年のことだったが、それは社会的正義の正確な諸要求事項(requirement)をレイアウトした。
 ロールズの議論の肝は、社会の諸制度は、一番めぐまれない人が裨益するように整えられなければならない、というものだ。
 『正義論』は、すぐに米国における左翼/リベラルの思考の範例(template)になった。
 その5年後に、フリードリッヒ・ハイエク(Friedrich Hayek)が、『社会的正義の幻想(The Mirage of Social Justice)』を出版したが、これは、社会的正義の全観念をこき下ろし、自由市場を擁護したものだった。
 ハイエクは、社会的正義を「鬼火(will-o'-the-wisp)」で「疑似宗教的迷信(quasi-religious superstition)」と描写した上で、それは「デマゴギーの符号(mark of demagogy)」に他ならない、とした。・・・
 「自由市場公正さ」でもって、トマシ氏は、以上の二つの物の見方に代替するものを提案する。・・・
 市場民主主義は、安っぽい(mushy)妥協ないし単なる真ん中の路線(middle way)ではなく、それ自身のメリットの上に屹立する「雑種(hybrid)」なのだ、とトマシは言う。・・・
 トマシ氏に言わせれば、社会は「一つの公共物(a public thing)」であって、だからこそ、全市民はそのしくみ(arrangements)が公正であることを確認(affirm)することが可能でなければならないのだ。
 ロールズを再加工して、トマシは、「最も恵まれない市民達の状況が時間の経過とともに改善するよう働く場合に限って、一連の諸制度は正義に適っている」と記す。・・・
 <例えば、>医療<制度などはそうでなければならない。>・・・
 <そもそも、>人間は、自分自身を奴隷として売る権利は持っていない<ことを想起せよ、と>。・・・
 彼は、国家は、自由放任的しくみに介入して「責任ある自己著作業務(self-authorship)の遂行(exercise)」が可能となるようにする義務がある、と主張する。・・・」(B)

 以上の話を、ジェイコブズの用語に置き換えると、トマシは、「保護者/統治<者>」は社会的正義を追求し、「商業/市場」主義者は自由放任を追求するところ、様々な市場に係る諸制度は、「保護者/統治<者>」と「商業/市場」主義者のそれぞれの系統の倫理の雑種的倫理たる「自由市場公正さ」でもって構築されなければならない、と主張していることになります。
 もし、このトマシの主張が実行可能なのであれば、かかる雑種的倫理は、ジェイコブズ/松尾が主張するような「最悪の腐敗<(=道徳の恐るべき雑種)>」ではない、ということになるはずです。

 笑ってしまうのは、ハイエク流の市場原理主義的思想を軸として、以上のような論争が続いているのは、世界広しといえども、基本的に米国においてだけだ、ということです。
 むしろ、市場の制度構築や運営に「保護者/統治<者>」が関与するのは当然であり、各市場の特性に応じ、「保護者/統治<者>」がいかなる制度を構築すべきか、また、運営面にどの程度関与すべきか、だけが議論の対象となる、というのが(米国を除く大部分の)先進市場経済諸国における常識でしょう。
 (以上は自明だと思うのだが、ズバリの典拠があったら、ぜひご教示いただきたい。)

 そうであるとすれば、これら諸国においては、「保護者症候群」/「 身内集団原理」と「商業症候群」/「開放個人主義原理」は截然と分かれてなどいない、と解してよさそうです。

 米国が、その社会思想において、いかに異常な国であるかは、オバマの微温的な医療保険改革(Obamacare)・・国民の大部分に医療保険加入を義務付けた・・は、連邦政府による州際通商・・市場(太田)・・への憲法違反的介入である、と訴えた訴訟が現在米最高裁に係属中であるところに端的に現れています。
 正統アングロサクソンである英国では、国営医療(!)が導入されて久しいというのに、米国ではいまだに(日本もそうであるところの、非国営の)国民皆保険医療ですらないどころか、皆保険医療に向けて前進しただけで違憲だと共和党系の人々が息巻いているのですからね。
 これに対して合憲だとする人々の方は、ニューディール期の小麦の作付規制という前例を持ち出しているところ、ニューディール期だけでなく、今や、先進市場経済諸国のすべてが国内農業市場に過剰介入している事実を見ても、市場への適正な介入というのはなかなかむつかしいものであることが分かりますが、そのことは自ずから別問題です。

 (以上、米国に係る事実関係は、下掲↓に拠った。
http://www.csmonitor.com/USA/Justice/2012/0330/How-Founding-Fathers-helped-argue-the-health-care-case-at-the-Supreme-Court
http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-bovard-supremecourt-precedent-healthcare-20120329,0,4114392.story
(どちらも3月31日アクセス))

 松尾は、米国の文献のうちのごくわずかの中から、よりにもよって社会思想の分野で、しかも学問的に疑問符の付くものを選び、あろうことか、その邦訳だけに拠って(?)自らの説の基本を構築しているところ、この点を含め、彼の説が突っ込みどころ満載とあいなったのはむべなるかな、ということです。
 松尾が、それほど浩瀚ではないこの著作の中で、まことに多岐にわたる珍説を繰り出してくれたおかげで、これまで私が取り上げていなかった人物や分野について、私見を披露する機会が与えられたという点では、この本を提供してくれた読者、ひいては松尾に深く感謝しなければなりませんが、このシリーズ(正、続)を書き終えた現在、このような著作を大手を振って市場に出回らせ、純真な市民達を惑わし続ける、現在の日本の社会科学の、巧まずしての志とクォリティの低さに、改めて暗澹たる思いを禁じ得ません。

(完)