太田述正コラム#5378(2012.3.24)
<松尾匡『商人道ノススメ』を読む(その14)>(2012.7.9公開)

 --橘孝三郎について--

 茨城大学人文学部(当時)の菅谷務(すがやつとむ)
http://sc.chat-shuffle.net/human/id:4463485
による『橘孝三郎にみる農本主義思想の位相: 変革期における宗教とテロリズム(A Phase of Agrocentrism in Kozaburo Tachibana : Religion and Terrorism in the Transitional Period)』(2005年)
http://ci.nii.ac.jp/els/110000480795.pdf?id=ART0000868255&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1332485249&cp= 以下
が引用している橘の文章、ないしそれを菅谷が要約したもの、等を手掛かりに、私の橘論を簡単に申し述べたいと思います。 

A:一高在学中、中退する前年の1914年に校友会誌に載せた「同類意識的精神性」より
B:1932年の五・一五事件の決起直前に土浦で青年将校に対して行った講演より
C:橘孝三郎尋問調書(1932年?)より

 「・・・愛と同情という高い精神性で結ばれた社会、すなわち表題にいう「同類意識的精神性」によって成り立つ社会の実現こそが、他の動物と違って人類だけに許された進化の目標であり、そのように自覚して努力していくことにこそ人類としての存在意義がある・・・」(A)
 「我々は相愛観念を忘れた。相互信頼を捨てた。すべて徹底せる個人主義、理知主義、営利主義、売買主義云々、・・・。」(B)

 ここから、橘孝三郎は、人間主義者であった、と断定してよいと思います。
 ところが、以下をご覧ください。

 「現状 近世資本主義 西洋物質文明=功利・分離・個人・利己=西洋=都市
  理想 東洋的原始共産体の農本社会=共同・融合・自然=アジア=農村」(B)
 ・・・
 「農村<は>・・・<水や空気や森などの・・・大自然と・・・融合<しており、>・・・精神的に物質的に凡ゆる関係に於て自利他利融合一致し得る理想社会<である。>」(C)

 橘が自利を排斥していない点も、また橘の自然観も、彼が人間主義者であったことを裏付けているわけですが、橘は、人間主義の追求、回復を即社会全体において実現しようとするのではなく、農村社会において、そして、社会全体を農村社会化することによって実現しようとしています。
 思うに、これは、一つには、当時の人類学や人間科学がまだ未発達で、(日本の人類史を含む)人類史や人間の本性がよく分かっていなかったことに加えて、「ルソーの・・・人間の本源的な可能性の根拠<たる>・・・「自然状態」を・・・<ルソーにとっては>自然状態からの離脱を示す・・・農業の開始<によって成立したところの、>・・・農村や農民の生活と結び付け・・・たのは、ルソーに大きな影響を受けたトルストイ(1828年〜1910年)であった<が、>・・・トルストイ<は、>・・・新しい生き方を模索していた<当時の日本人>たちに対して「爆発的」ともいえるほどの大きな影響を与えた」という背景の下、トルストイ崇拝者であった橘(橘の「子飼い」であった杉浦孝の証言)が、本来、定着的狩猟採集社会であった縄文社会と結びつけるべき人間主義を、弥生時代以降に始まった本格的な農業社会と結び付けてしまったからでしょう。

 かかる、農業ないし農村の神聖視は、橘、ひいては橘ら農本主義者(Agrocentrism)(注40)の致命的な誤りなのであって、橘が北一輝とは違って五・一五事件に直接関与したとはいえ、彼は、日本型政治経済体制構築への思想的貢献度において、到底、北に比肩しうる存在ではない、と言うべきでしょう。

 (注40)橘と並び称される農本主義者に権藤成卿(ごんどうせいぎょう。1868〜1937年)がいる。権藤は、「黒竜会の結成に参加した。その後、25歳<からの>・・・17年間にわたって朝鮮、中国、ロシアなどを訪ねた。中国、上海にいたころ、革命が勃発すると在中日本人同志とともに革命指導者の一員として参加した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E8%97%A4%E6%88%90%E5%8D%BF
 「権藤の思想のキーワードは“社稷”。一人ひとりの素直な思い遣りの気持ちが歴史的に積み重なって生成した自治的な地域共同体を指す。ところが、明治政府の中央集権化、資本主義による経済システムの拡大という政治・経済の両面において露わとなった権力という暴力によって、農村に残っていた社稷の慣習が崩されつつある。そうした危機意識が国家革新運動へのモチベーションとなった。」
http://barbare.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_6ebe.html
 橘より権藤の方が筋が良さそうだが、これ以上の詮索は当面控えたい。

 ところで、橘自身が講演録の中で紹介している下掲の挿話には、まことに興味深いものがあります。

 「この間、車中で純朴そのものな村の年寄りの一団と乗り合わせました。・・・その老人たち<は、>・・・こんな話をしていたのです。「どうせなついでに早く日米戦争でもおっぱっじまればいいのに」「ほんとにそうだ。そうすりゃ一景気来るかもしらんからな、ところでどうだいこんなありさまで勝てると思うかよ。何しろアメリカは大きいぞ。」「いやそりゃどうかわからん。しかし日本の軍隊はなんちゅうても強いからのう。」「そりゃ世界一にきまってる。しかし、軍隊は世界一強いにしても、第一軍資金がつづくまい。」「うむ、そりゃそうだ。だが、どうせまけたって構ったもんじゃねえ、一戦争のるかそるかやっつけることだ。勝てば勿論こっちのものだ、思う存分金をひったくる、まけたってアメリカならそんなにひどいこともやるまい、かえってアメリカの属国になりゃ楽になるかもしれんぞ。」(B)

 ここから見えてくるのは、既に1932年の段階で、日本の農村においてすら、日米戦争の不可避性と当該戦争における日本の敗戦を予見し「期待」するとともに、戦後日本の吉田ドクトリンをも先取りしたかのような発想がかなり広範に存在していた可能性がある、ということです。
 これは、戦前の昭和日本が、既に、縄文モードに転じていた、という私の仮説と整合性のある挿話である、と言えそうです。

(続く)