太田述正コラム#5376(2012.3.23)
<松尾匡『商人道ノススメ』を読む(その13)>(2012.7.8公開)

 まず、宋教仁(Song Jiaoren)が1911年の辛亥革命の時に、親友の北をご指名でわざわざ支那に呼び寄せたところ、宋は急進的自由民主主義者であった(コラム#234)ことからして、私は、北もまた急進的自由民主主義者であったに違いない、と思うのです。
 1912年に総選挙で第一党になった、(中国同盟会(Tongmenghui)が改組されたところの、)国民党(Kuomintang)・・1919年に孫文によって設立された中国国民党とは別の政党・・の多数派を率いていて同党の初代党首であった宋教仁が1913年に暗殺された時、その黒幕は(当時中華民国臨時総統の)袁世凱であった可能性が高いわけですが、北が、暗殺の黒幕は(当時国民党の少数派を率いていた)孫文であると主張した、ということは、それが憶測に過ぎなかったとしても、北が、当時、既に孫文の反自由民主主義的な独裁志向体質を見抜いていたからである、と見てほぼ間違いないでしょう。
 (以上、歴史的事実関係は下掲に拠った。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%95%99%E4%BB%81
http://en.wikipedia.org/wiki/Song_Jiaoren
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%85%9A

 (宋教仁の暗殺と、それに伴う、支那の路線の日本のそれとの乖離が、支那の、今日に至るまで影を落としているところの、20世紀中葉における巨大な悲劇への分岐点になった、という感を深くします。)

 次に、北が、「日露戦争を支持するとともに、汎アジア主義の文脈の中で、ロシアを筆頭とするスラブ人を野蛮人呼ばわりしてい」たことも、北がロシアの専制主義(反自由民主主義性)を侮蔑し、警戒していたからだと考えれば、まことによく理解できます。
 そして、かかる観点から、北は、汎アジア主義を掲げるとともに、日本帝国主義を支持した、というわけです。
 なお、北のこのロシアの専制主義への侮蔑、警戒が、ロシア革命以降、赤露へのより増幅された侮蔑、警戒に形を変えたことは当然でしょう。

 ここまでは、北が、私の言う横井小楠コンセンサス(コラム#1609、1610、1613、1618、2129、3770、3855、4002、4004、4285、4303、4320、4366、4374、4581、4581、4582、4597、4599、4647、4648、4669、4694、4701、4779、4795、4875、4917、4945)の嫡流に位置することを指し示しています。

 以下は、北がこのコンセンサスを独自に充実発展させた部分です。

 「枢密院・貴族院・華族制は廃止、私有財産の上限を百万円として超過分を国家が没収、資本金1千万以上の企業は国有化する」というのですから、北は、平等主義の観点から、アングロサクソン流の経済体制、すなわち理念型的資本主義が、英国の場合は非白人植民地において、そして米国の場合は本国及び植民地において、そして、日本においても、著しい権威、権力及び富の集中を生み出していることを問題視し、それに代わる政治経済体制を追求したことが分かります。
 北の発想の原点には、権威と権力と富の担い手がそれぞれ異なっていたところの、江戸時代の政治経済体制(注37)(コラム#4701)があった、と私は想像しています。

 (注37)まともな典拠を捜している。なお、公家/権威(地位)、武士/権力、農・商/富のほか、工/名誉もあげる人もいる。
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20070724/136574/?ST=print

 このような北の思想の強い影響の下、戦前の昭和期において、経済にあっては資本主義と社会主義の否定、政治にあっては、自由主義/個人主義と全体主義の止揚というコンセンサスが日本国民の間で生まれ、下からと上からの動きとが両々相まって、まず満州において試行がなされた後、戦時総動員体制構築に藉口しつつ、反営利・反市場的にして人間主義的な日本型政治経済体制が日本において構築されるのです。
 これは、革命的な体制変革であったわけですが、北自身は革命を提唱したところ、結果として、このような体制変革が、北流の象徴天皇の下で、明治維新よりも更に平和的に、しかも自由民主主義的社会を基本的に維持しつつ遂行できたことは、いかにも日本らしいというべきでしょう。
 特筆されるべきは、この復古的でかつ新しい政治経済体制が、日本において、1941年時点において早くも、対英米戦争で緒戦の一連の勝利をあげられるだけの質と量の軍事力を整備することを可能にしただけでなく、日本に、「自由と民主主義を保ちながらも社会的格差の少ない集団的な社会を築<くとともに、>」、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9E%8B%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9
戦後の1968年に世界第二位の経済力・・2010年に中共に抜かれて世界第三位へ・・をもたらした
http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0911-18.html
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-19120120110120
ことです。
 京都学派等の日本の戦前・戦中の知識人達が口にしたところの、日本における「近代の超克」は、断じて妄言などではなかったのです。

 もとより、どんな政治経済体制も、光の部分だけではなく影の部分もありますし、ある時代には適合的であったとしても、後の時代には適合的ではなくなることがあることを忘れてはならないでしょう。
 とまれ、松尾は、マルクス経済学者として、マルクスの言う通りに、日本を理念型的な資本主義社会にすること、すなわち、松尾の言葉を用いれば商人道ないし開放個人主義原理で日本が染め上がること、によって日本に共産主義社会への「正しい」展望が開ける、と思い込んでいるようですが、そんな青い鳥症候群に陥ることなく、彼は、日本型政治経済体制こそ一種の共産主義体制であった、と認識することだってできたはずです。
 実際、日本型政治経済体制を「日本型社会主義」と呼んだり、日本のことを「世界で最も成功した共産国」と呼んだりする人がいたくらいですからね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9E%8B%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9 前掲

 (マルクスは共産主義社会を具体的に思い描くことができませんでした(注38)し、共産主義社会に至るプロセスとして、理念型的資本主義社会の実現を理想とした点でもナンセンス(注39)でした。

 (注38)「各人の自由な発展が、万人の自由な発展の条件となるような協同社会」(『共産党宣言』)、「共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体(Assoziation)」(『資本論』第一巻の第二版)、「共産主義社会<は、>低い段階<では>能力に応じて働き、労働に応じて受け取<り、>高い段階<では>「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」(『ゴータ綱領批判』)といったほとんど無内容なことしかマルクスは記していない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9#.E7.A4.BE.E4.BC.9A.E4.B8.BB.E7.BE.A9.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.81.95.E3.81.84 前掲
 (注39)資本主義諸国中、理念型的資本主義社会に最も近い米国において共産主義がほとんど根付かなかったことを想起せよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A
 なお、このマルクスの「妄想」は、レーニンのブルジョア革命を経てから共産主義革命へという二段階革命論への固執をもたらし、そのレーニンをトロツキーが「説得」してようやく10月革命を実現させたり、同様二段階革命論にとらわれていたスターリンが「ブルジョア」政党たる中国国民党への支援に最後までこだわったり、といったドラマを生み出した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%B6%9A%E9%9D%A9%E5%91%BD%E8%AB%96

 当然のことですが、ですから、自称共産主義革命こそいくつか起こったけれど、共産主義者達自身、いまだ共産主義社会はこの世界のどこにも出現したことがないことを認めています。
 これに対して、北や、北の主張に接した戦前の日本の人々は、江戸時代についての知識や彼らの生きていた時代における江戸時代の名残を通して、北が目指した社会を具体的に思い描くことができたに違いないのであり、だからこそ、かかる社会は、日本型政治経済体制という形で、彼らによって比較的短い年月で実現するに至り、爾来、既に70〜80年の歴史を有するだけでなく、その変形物を、我々は、台湾、韓国、そして中共において見出すことができるのです。)

(続く)