太田述正コラム#5374(2012.3.22)
<松尾匡『商人道ノススメ』を読む(その12)>(2012.7.7公開)

 --北一輝について--

 いつものことながら、北一輝に関してさえ、(分量こそ違いはないけれど、)質が日本語ウィキペディアよりも英語ウィキペディア
http://en.wikipedia.org/wiki/Ikki_Kita
の方がはるかに高いと感じました。
 その英語ウィキペディアから、引用しましょう。

 「表見的には、北は、ファシズム、国家社会主義(或いは上からの社会主義)、農本主義、そして軍国主義の混淆物を創造したように見える。
 <また、>彼の著作群は、日本が、アジアを解放すべきだとする一方で、人口増大の圧力により海外への拡大に乗り出すべきだともしている。」
 
 こういう調子なので、北の思想は一貫していない、と見られがちであったというのです。
 その上で、英語ウィキペディアは、ニック・ハワード(Nik Howard)なる人物(注29)の、実はほぼ一貫している、という説で締めくくっています。

 (注29)詳細は不明だが、下掲の小論考が、The London Socialist Historians Group Newsletter (London: London Socialist Historians Group)に掲載されたものであることから、英国の社会主義者であると推察される。
 
 ハワードは、『北一輝は社会主義者だったか?(Was Kita Ikki a Socialist? )』(2004年)
http://web.archive.org/web/20080424075836/http://www.londonsocialisthistorians.org/newsletter/articles.pl/noframes/read/95
の中で次のような趣旨のことを記しています。

 丸山真男は、北が、失敗に終わった二・二六事件の首謀者達に大きな思想的影響を与えたことで、結果的に、爾後、上からのファシズムへの道を開いたとしたが、北を社会主義者であったとする者が欧米には数多い。
 しかし、彼は、

一、北は、日露戦争を支持するとともに、汎アジア主義の文脈の中で、ロシアを筆頭とするスラブ人を野蛮人呼ばわりしているし、
二、社会的ダーウィン主義を奉じているし、
三、日本の帝国主義を支持している

こと等から、自国を、ロシアや英国等の金権国家(plutocratic nations)と対峙する無産国家(working class nation)である、と規定したところの、世界で最初のプロト・ファシストである。

 ちなみに、ハワードは、この意味での、世界で2番目のプロト・ファシストは、イタリアのエンリコ・コラディニ(Enrico Corradini)(注30)だとしています。

 (注30)1865〜1931年。イタリアの小説家、随筆家、ジャーナリスト、ナショナリスト。1919年に次のようなプロレタリア・ナショナリズムの考え方に到達。「我々は、プロレタリア諸国家やプロレタリア諸階級が存在するという事実を認識し始めなければならない。すなわち、諸階級がそうであるように、生活諸条件が、他の諸国家の生活様式…によって規定される(be subject to)諸国家が存在するということだ。この認識さえすれば、ナショナリズムはこの真実の上に堅固に立脚するよう固執されなければならない。イタリアは、物質的にも道徳的にも、プロレタリア国家なのだ。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Enrico_Corradini

 私自身は、北は社会主義者でもなければ、プロト・ファシストないしファシストでもなかったと考えています。
 その手がかりになるのが、上掲の小論考中に、言及がなされていたところの、ハル・ドレイパー(Hal Draper)(注31)です。

 (注31)1914〜90年。ユダヤ系米国人。ブルックリン単科大学卒。社会活動家、著述家。『社会主義の二つの魂(The Two Souls of Socialism)』(1966年)で有名。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hal_Draper

 彼は、『社会主義の二つの魂』の中で、次のような趣旨のことを記しています。
 
 社会主義には、「上からの社会主義」と「下からの社会主義」がある。
 前者は革命・暴力・専制等、後者は改革・平和・民主主義等と結びつく傾向がある。
 社会主義の祖先は、プラトン、ピタゴラス、 グラックス(Gracchi)(注32)だ。


 (注32)単数なので、共和政ローマ末期のティベリウス・センプロニウス・グラックス[Tiberius Sempronius Gracchus。紀元前163〜133]とガイウス・センプロニウス・グラックス{Gaius Sempronius Gracchus。紀元前154〜121}の兄弟のうちの前者を指していると思われる。
 「ポエニ戦争などの戦役を通じてローマは領土を拡大していったが、戦争の長期化に伴って農地は荒廃し、また植民都市からは安価な穀物が流入、加えて征服事業で得た奴隷を用いたパトリキの大土地所有(=ラティフンディウム)が拡大したことによって、中小農民が没落していった。
 ローマ軍は一定の資産を持つ市民の徴兵によって成り立っていたが、中小農民の没落によって徴兵対象が減少してしまう。これは国防の低下に直結するため、やむを得ず徴兵対象をより資産の少ない者にまで拡大したが、それによって一家の働き手を取られた中小農民はますます没落し、また資産の無い者から徴兵されたローマの軍団員は著しく質が低下していった。
 ティベリウスは紀元前133年に護民官に就任し、ラティフンディウムによる公有地の占有を制限することで無産市民に土地を再分配し、自作農を創出することを目指した。しかしこれはラティフンディウムによって利益を得ていたパトリキが多数を占める元老院議員の反発を招く。ティベリウスは法案を民会に提出し成立させたが、これは元老院を無視するやり方であり、元老院の更なる反発を招いた。結果、ティベリウスは暗殺されてしまう。
 ガイウスは紀元前123年に護民官に就任した。穀物法を成立させて貧民を救済するが、ラテン同盟市に対するローマ市民権公布を巡って元老院と対立し、元老院最終勧告を出されて自殺に追い込まれた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E5%85%84%E5%BC%9F
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9 ([]内)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9 ({}内)

 そして、上からの社会主義を奉じた者として、バブーフ(Babeuf)(コラム#3650)、サンシモン(Saint-Simon)(コラム#3216)、次いで、ユートピアを追求したフーリエ(Fourier)(コラム#3650)、オーウェン(Owen)、更には共産党独裁論者やスターリン主義者や(ラッサール(コラム#5232)やフェビアン協会(注33)員(Fabians)やエドゥアルト・ベルンシュタイン(Eduard Bernstein)(注34)やエドワード・ベラミー(Edward Bellamy)といった米社会主義者達らの)社会民主主義者や(プルードン(コラム#2264、2267、4471)やバクーニン(コラム#2264、2267、2270、3280、3682、4242、4471)らの)アナーキストがいたのに対し、下からの社会主義を初めて唱え、かつその旗手となったのがマルクスだ。

 (注33)Fabian Society。「19世紀後半に創設された、最もよく知られているイギリスの社会主義知識人による運動。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを設立する際の母体となった。なお、労働党の基盤の団体として、現在も存在している。・・・社会改良主義<標榜し、>・・・漸進的な社会変革によって教条主義的マルクス主義に対抗し、暴力革命を抑止する思想や運動をフェビアン主義(フェビアニズム)と呼ぶ。なお、・・・メンバーには、心霊主義の傾向が強い者が少なからずいた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%B3%E5%8D%94%E4%BC%9A
 (注34)1850〜1932年。社会民主主義、修正主義の理論的創始者。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3
 (注35)1850〜1898年。「<米>国の著<述>家、社会主義者・・・。西暦2000年を舞台にしたユートピア小説、『顧みれば』("Looking Backward")で有名」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%BC

 なぜなら、マルクスは、労働者階級の解放は同階級自身の行為によって実現されなければならないとし、ついに、社会主義と民主主義という二つの観念を固く結びつけたからだ。
 (ちなみに、上からの社会主義の特徴は、博愛主義(philanthropism)、(政治的、知的、または技術的)選良主義(elitism)、計画主義(plannism)、 宗派主義(communionism)、 普及主義(permeationism)、外からの社会主義(Socialism from Outside)だ。)
 (以上、特に断っていない限り下掲による。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Two_Souls_of_Socialism )

 しかし、上からの社会主義の特徴・・原著にあたらないと良く意味が分からないものもある・・の逆が下からの社会主義の特徴だとすると、それは、例えば、友愛主義、大衆主義、無計画主義、開放主義、自然伝播主義、内からの社会主義、といった感じになるのではないでしょうか。
 しかもそれは、改革・平和・民主主義等と結びつく傾向がある、というわけです。
 更に、アナーキズムも上からの社会主義だ、というのですから、下からの社会主義なるものは、国家の存続を前提にしているわけです。
 となると、ドレイパーは下からの「社会主義」と言っていますが、そんなものは「社会主義」ではない、と断定した方がすっきりする、というものです。
 そもそも、マルクスは、共産主義を唱えたのであって、社会主義を唱えたわけではない(注36)、ということを思い起こせば、マルクスは社会主義者ではない、とさえ言ったってよいのではないでしょうか。

 (注36)「エンゲルスは1890年に出版された『共産党宣言』ドイツ語版の序文で「1847年には、社会主義はブルジョアの運動を意味し、共産主義は労働者の運動を意味した」と説明している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9#.E7.A4.BE.E4.BC.9A.E4.B8.BB.E7.BE.A9.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.81.95.E3.81.84

 つまり、マルクスは、社会主義でも資本主義(ファシズムを含む)でもない、第三の道を唱えた、と考えてもよいのではないか、ということです。
 その上で、私は、北が、世界で最初のプロト・ファシスト思想家ならぬ、以上のような意味での第三の道を唱えた、世界中でマルクスに続く2番手の思想家だった、と考えているのです。 

(続く)